前記事で掲載しました「川を渡って」の村雲江視点のお話になります。
前作と同じく、刀剣破壊あり、暗い、怖い、意味わからんの三拍子です。
本作に入る前に少しだけいつもの自語りさせてください。
この作品は決して自殺を助長するためのものではありません。
ですが、作者である私は現実と並行して作品を連載する中で、色んなことがありました。幾度と死にたいと思う日も、寿命が尽きるまであと何日だろうと思うこともありました。ですが村雲江が小説を通して、審神者に話しかけてくれることでまだ生きていたいと思わせてくれました。死んでいるのに、生きている、生きているのに死んでいる。成仏するために49日間かかった審神者のような感覚でした。
49日間本当に長かったです。対岸が見えるまで、ずっと暗い川を渡っていたような気がしています。
なんとか完結することができて、今はほっとしています。この本丸の彼らは向こう岸に行ってしまったけれど、私はまだここで文字でも書いていようと思います。
あなたが今、もし死にたいと思っているのなら、誰でもいい、どこでもいい。逃げてください。どこにだって行けるんです。まだ川を渡らなくていい。今ではありません。
あなたに言葉をかけてくれる人はたくさんいる。誰もいないというなら私にメッセージを送ってください。むちゃくちゃ美味しいカレーの作り方、教えます。
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葉月二十日余六日
それは暑い日だった。残暑というにはあまりにも可愛げが無い。どちらかと言えば猛暑に近い日だった。
主が現世に戻って数日経ったある日の事。どこか嫌気がさして迎えに行った初期刀は「一緒に帰ってくる」なんて豪語するや否や現世に向かった。
──翌日約束通り主と共に帰還を果たしたのだが、それは既に審神者であって審神者では無かった。
初期刀の腕の中にすっぽりと審神者が収まっていた。刀剣男士たちにとって実に三日ぶりの再会だった。それは既に息絶えていて、物言わぬ伽藍だった。
亡骸を大事そうに抱える初期刀に一同動揺した。
泣き崩れる者、全てを受け入れ感情を無くす者、怒りを露わにする者、死を疑う者、実に様々だった。縄を使って自ら命を絶ったのだろう。首には見るも無残な痕が残っていた。
これを他殺と疑う刀もいたが、審神者の指は綺麗なままだった。それは抵抗をしなかった何よりの証拠だった。
初期刀 加州清光は早急に政府に報告。後に時間遡行を用いた調査が行われるも、紛れもない自殺であることが判明。これより四十九日の期間を設け、本丸の解体及び刀剣の強制刀解が決定した。
他殺、自殺、その他奇怪な事案が発生した本丸には解体が命ぜられる。まさか自分たちの本丸が該当する日がこようとは思ってもみなかった刀たちは驚いた。
しかしながらそれも当然の道理のことだった。不可解な出来事が起こった本丸では何が起こるか分からない。主を失った付喪神が荒魂となり歴史修正主義者と陥る可能性だって捨てきれない。政府にとって、異分子の芽は摘めるうちに摘んでしまいたい。主を失った今、当本丸の所有権は政府へと渡り、従う他なかったのだ。
直ちに時間遡行装置、出陣、遠征及び演練のゲートは閉じられ、刀剣男士たちは本丸を畳むことを余儀なくされた。
──ただ一つ。希望があるとするならば、審神者は遺書を残していた。その遺書には簡潔ながらも今までの感謝と事務的な連絡、そして村雲江を最後の近侍に任命するとあった。審神者の魂は四十九日であの世へ渡る。それまでの間、その魂は時間遡行軍が狙うのだという。審神者の微かな霊力を頼りに、遺骨や魂を狙っているのだという。
眉唾物の噂には過ぎなかったため、審神者の間ではあまり信じられていなかったが、この本丸の審神者は信じたようだった。
それはいわば最後の護衛だった。毎日来るかも分からない時間遡行軍に村雲江はたった一振り、立ち向かうことになったのだった。
これより肥後国、本丸番号××××××××サーバー××××× ××× 本丸 審神者の命により本日付で刀帳番号二百番 村雲江を近侍に任命する。
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やけに冷えた部屋だった。主の部屋なんていつぶりに訪れただろうか。主の遺体が腐敗するのを防ぐため、主の眠る柩の中にはドライアイスが敷き詰められていて、冷房がよく効いていた。あまりにも寒くて、俺は背名を丸めることしかできなかった。正座をしてみるも、誰も見ていないし、崩してしまいたいくらいだった。
主が死んだ。それは受け入れ難くても、受け入れるしかない事実だった。現に主は今こうして眠るように死んでいる。乱藤四郎、加州清光、京極政宗、次郎太刀らによって美しい死に化粧が施されているが、その首元にはうっすらと縄の後が浮き出ていた。
──何の因果だろうか。近侍の命が俺に下りた。それは初期刀の加州清光や初鍛刀の今剣でもなかった。正直な話、皆信じられないようだった。
生前特別仲が良かったわけでもない俺がどうして。近侍の命を俺に伝えた時、加州清光は何とも言えない顔を浮かべた。その顔が今も脳裏に焼き付いている。
「どうして村雲江が」喉まで出た言葉は語られることはなかった。
「………なんで俺なの…なんで………俺なんかを選んで……はあ…考えても仕方ないか……」
気が付けば口に出していた。はっきり言って憂鬱だ。こんな大役、初期刀殿にでも任せてしまいたいのに。どうして。近侍になったと知らされたその日から体中から血の気がないようだった。
手にしていた自身を強く握りしめて、ゆっくりと瞼を閉じてみた。出陣ゲートが閉ざされた今、俺はもう正義も悪も考えなくていいんだ。そう思うとどこか心がほっとした気がした。しかしながら、いつどこで時間遡行軍が来るのか分からない。頼むからもう何も斬らせないでくれ。平穏を願いその日は終わりを遂げた。
*
翌朝になろうとも現実は変わらなかった。それどころか、皆少しずつではあるが主の死を受け入れている。刀剣男士なのだから死はいつだって隣り合わせだ。これまで何人もの人間の死を見届けてきた。こんなのは慣れっこだという刀すらいた。
時間遡行軍はいつどこで現れるか分からない。審神者の死後霊力が少しずつ薄まっていく本丸は、やがて結界もなくなってしまうことだろう。俺は人ではないから、
睡眠をとらなくても問題はない。夜通し気配を消し来るか分からない時間遡行軍を待ち続けたが、昨夜はなんら異常なし。
取り越し苦労に終わってしまった。身体的には問題ないが、些か疲労感を覚えた。当たり前のように登ってきた朝日に嫌気がさして、ため息をついていると願ったり叶ったりの来訪者が現れた。
「雲さん、起きていますか」
同じ刀工の打った刀、五月雨江だった。奥ゆかしいその声はどこか物憂げだった。早朝だからだろうか。
「雨さん……」
「良かった。入っても?」
「うん。どうぞ」
内番服に身を包んだ雨さんは静かに部屋に入ると、傍へと駆け寄ってきた。
「お疲れ様です」
「ありがとう。雨さんもお疲れ様」
「大変なことになりましたね」
「……そうだね」
大変。その言葉にはどんな意味があるのだろう。詩を詠む彼の言葉は幾重にも意味がある。と俺はいつも思っていた。大変だと言えば大変なのだけどその実することはない。
だのに考える心はあるせいで、何故死んだのか、そして何故俺を近侍にしたのか一晩中そんなことを考えてばかりいた。
「ずっと部屋にいるのですか」
「うん。自室に戻っても気配で分かりそうにはあるんだけどね、一応」
「そうですか」
「退屈だよ。することもないし」
乱雑に刀を置くと雨さんは小さくこらと言ってきたので、じっとりと視線で訴えかけてみた。少しの間睨み合いっこをすると、先に根負けした雨さんはくすりと笑いはある提案をしてきた。
「雲さん」
「うん?」
「頭に一日一言でもいい、話してみてはいかがでしょうか」
思っても見なかった言葉に少し目をしばたたかせた。冗談を言っているようにも思えない彼は、柔らかい表情をしていた。
「……なんで」
「季語が無くてもいい、何にか語ることがあれば、退屈しのぎくらいにはなるでしょうし主も冥界で迷わないと思うのです」
「そうかな」
「ええ」
「人は死の間際、最後に低下するのは聴力だそうですよ。つまり耳はずっと聞こえているんです。雲さんが話せば頭はどこかで聞いてくれるかもしれません」
どうしてそんなに自信があるの。大体もう死んでるよ。とは言えなかった。雨さんなりに俺を励まそうとしていくれているのかもしれない。こんな時にまで俺の心配をするなんて。ふいに自分の不甲斐なさに嫌気がさした。
「雲さんが近侍に選ばれたのもきっと何か縁があることですよ」
「そう……」
ほの暗い感情を抱いたところでこの人には通用しない。俺が悪とか正義とか、そんなものに悩んでもいつも隣にいてくれたし、ある時は前を歩いてくれた。
ああ、雨さんにはかなわない。仲間の言葉に少しだけ心が安らいで気が付けば頷き返していた。
「……ありがとう。そうしてみる」
「わん」
嬉しそうにした雨さんはそう呟いて、主と俺にいくつか詩を披露するとその場を後にした。
*
小さな隔たりひとつ。畳の縁は審神者と村雲江の境界線だった。俺は音も立てずに刀置くと、息を吐いた。
主が急死したことに伴い、本丸は大忙しだった。本丸を畳むための手続きは専ら加州清光が行ったし、その他金銭関係は勘定番長の博多藤四郎をはじめ、事務作業が得意な刀たちが従事した。
さて話すとは言ったものの何を話そうか……。そこまで話題があるわけではないけれど、事務連絡みたいなものでいいのだろうか。それだったら生前にやった近侍と業務は変わらない。少し考えた後、本丸であった出来事を話すことにしてみた。
「今日は……勘定番長の博多と松井と雲生が手分けして経費の整理をしたよ。主がマメに仕事してくれてたおかげで、ほとんど手を焼くことがなくて皆びっくりしてたよ」
雨さんに言われた通り、口数は少ないが、俺は少しずつ主に話すようにしてみた。計画的な自死であったのか。審神者の金銭関係はやたらと整理整頓ができていた。死ぬと決意してからどれだけの時間を有していたのだろう。それは分からなかったけれど。
主が死んだことによって流れ着いた莫大な遺産は一割は親族に。後の九割は本丸に振り込まれていた。
そこまでの資産は無かったのだが元来無駄遣いをしない性格だったし、何より政府直属の審神者業というのがどうも巨額の遺産を生み出したようだった。
だけれどこんな大金があったところでなんの気持ちもおきない。ただ生きていてくれればそれで良かったのに。そう思っても時は既に遅かった。
目尻に皺を作っているためか、それは不器用な笑い方だったのかもしれないが、せめてもの思いで、笑って見せた。
相も変わらずこの部屋は冷えきっていて、つんざくような寒さを覚えた。指先も鼻も耳も赤みを帯びた。
明日は葬式だ。主のこの安らかな寝顔も見納めか。今日は多くの仲間たちが部屋を訪れた。主との別れが惜しいのだろう。何時間も見続ける刀もいたし、顔を見せない刀だっていた。みんなそれぞれの向き合い方で主を弔っていた。
*
主が死んでから三日後。本丸を離れ、政府が運営する葬儀場に訪れていた。葬式と火葬を行うためだった。
さすがに全ての刀剣男士で押しかける訳にも行かないので、古参の刀たち、第一部隊の刀たち等ざっとあわせて三十人弱で執り行った。
政府からの出向は二名だった。政府職員の若い女性と刀剣男士の小烏丸だった。二人ともどこか独特の雰囲気があった。葬儀が終わると挨拶もそこそこに帰っていった。いてもいなくても同じ、こういう葬式は慣れているというような感じだった。
自殺ということもあって調査結果はとっくに出ているものの、主の死は明るみには出ておらず身内の参列者はいなかった。
広い式場であったが、葬儀を行う回数が多いためか、幾つか部屋があって主は一番小さい部屋に割り振られていた。隣室の大きな部屋では老衰で亡くなったという審神者の式が行われていた。
俺たち刀は人の死に慣れている。慣れているというと些か誤解を生みそうではあるが、少なくとも人間よりは身近な存在だと認識していた。こうして人の身を得て葬儀に参加するのは初めてのことだったけれど、みんなたじろぐことも無く落ち着いていた。
ただ見ていられないと思ったのは初鍛刀である今剣だった。彼の来歴や性格からして急な別れは堪えているようだった。主が帰ってきた日から泣き続けて死を悲しいんでいる。
しめやかに行われた式は順調に進み、気が付けば火葬まで進んでいた。先ほど僧侶が経を読み上げた後、主の肉体を焼くための装置が、指一つでいとも簡単に行われた。機械の奥から人口的な火炎の音がした。それがどうも不愉快だった。
「大慶」
「ん~?」
一番近くにいた大慶直胤に声をかけた。誰にも悟られまいと、小声で発したため相手も小声で返してくれた。
「刀剣が打たれる時の温度と人が焼かれる時の温度はどのくらい違うの」
「……そうだねぇ~仮にこの装置が政府型落ちの旧時代式だとするなら温度は800度から1200度、反対に刀剣の焼き入れは750度~760度ってとこかな。故に人を焼く方が温度は高いね。玉鋼の塊を形作るか、人体を溶かすか。これだけの違いなのに人体って刀剣以上にあるけみ~な存在なんだよね。やば、非科学的なこと言っちゃった。これ加州には内緒!」
「そう……」
虚ろな目で柩をみた。俺たち刀剣男士よりも遥かに高熱に晒され、肉体を消滅させるのだと聞くと無性に怒りが込み上げてきた。
どうして、誰か一人にでもその苦しみを打ち明けなかったのか。どうして死ななければならなかったのか。遺書にはその理由は一切語られなかったし、調査をしたという政府からも有益な情報は得られなかった。
なにも近侍になるのは自分じゃなくていい。よりによって二束三文の自分など主にふさわしくない。ボタン一つで焼かれる主がどうしようもなくやるせなくて、気が付けば体が勝手に動いていた。
「……クソッ」
「村雲?」
耳の奥にこびりつく低く残酷な炎の音。聞いているだけでうんざりする。考えるよりも先に俺は主と俺たちを隔てる火葬装置の扉をこじ開けようとした。
いつか聞いた、刀剣男士の火事場の馬鹿力とは本当にあるようで扉は徐々に開いて、火の粉を散らし始めた。それと同時に俺の腕全体にも火が降りかかる。
「まってて主、今出してあげるから」
先ほど入れたばかりの棺は既に黒くなり始めていた。ああ可哀そうに。
「なっ」
大慶があんぐりと口を開けたのが分かった。
「え?」「は」「村雲江!?」「何してる!」
「やめろ!おい誰か止めろ!!」
「……ッッ雲さん!!」「やめろちゃ!」「抑えろ!」
皆なにか言ってる。でも今はそんなこと耳に届かない。
まってて主。いまそこから出してあげるから、そこは熱いよね。
手の感覚が段々なくなる。でも手を伸ばせば主はまだそこにいる。それだけを頼りに手を伸ばした。
「熱いよね。まってて……ッッ!!」
「おい!やめろ!やめろって!!」
「手を貸せ!」
誰だかは分からないけれど、羽交い絞めにされた。
「離して……!!あるじ、ねぇ主もそんなとこ嫌だよね、ねぇねぇったら!!!」
「目ぇ覚ませよ!!!」
「……ッッ!!!」
無理やり引きはがされて、加州から本気で殴られたことによって、俺はよろけ地面に吹っ飛んだ。その打撃はあまりにも重くて頬が痛い気がしたが、無力な手と腕が爛れて溶け、感覚が無くなっている方が恐ろしかった。
視界には主の眠る柩がうつる。俺が手を離したことで反射的に閉まったのだけど、その柩が部分的に燃えて、花に囲まれる主の頭が人の頭で無くなっていくのが見えた。
その姿を見て、その場に居合わせた刀の誰もが絶句した。不動行光は飛び出して行ってしまい、宗三左文字はせり上げるものを嚥下した。前の主のことを思いだしてしまったのだろう。
結局、俺の馬鹿な行動はなんの意味ももたらさずに主の肉体はこの世から消えた。
*
本丸に戻り、緊急手入れとなった俺はやはり主が燃やされたことに実感がわかなくて、隙をみて逃げ出した。まだ完全に回復していない。故に身体もどこかだるくて、主の部屋へつくのも一苦労だった。覚束ない足取りで主の部屋を訪れた。
腕全体が爛れ、身体が思うように動かない。目の前に置かれたのは骨壺となった主だった。いずれ解体されるのならと仏壇は設けられなかった。
「……炎って熱いんだね。さっきね、人になって初めて炎の中に飛び込んだんだ。っていっても腕だけど。……俺が打たれた時なんかよりも涼しいものだと思っていたし、大慶直胤にああ言われたのに、熱かったなー……。確かに熱かった……みてこの手。もう戦えないかも。まあ今から治してもらうんだけどね」
主に見せつけるように自身の両手を広げて見せた。
その手は刀すらまともに握れなくなっており、骨すら溶けてしまったのかと見紛うほどだ。
やがて主の鎮座する場所をじっと見続け数刻経った後、静かに立ち上がり部屋を後にした。
*
手入れ後、俺を待っているのは時間遡行軍よりも遥かに恐ろしい、カンカンに怒った鬼だった。
「もう二度とあんな無茶しないでください!!!」
篭手くんの怒号が江の部屋に威勢よく響いた。その場にいた皆が思わず目を白黒させる。
「主亡き今、手入れ部屋が作動するかも分からなかったのに!主の次に村雲さんまで失ったら私たちは……」
目尻に涙をため込む彼は、本気で俺の事を心配して怒ってくれている。そう思うと申し訳ない気持ちが込み上げてきた。あの時は夢中で考えていなかったけど、俺が傷つくことで怒ったり泣いてくれたりする人がここにはいるんだった。
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいで済んだら、時間遡行軍も検非違使もいらないんですよ!!」
篭手くんは怒りに身を任せ、利き手で壁を思い切りに叩いた。おかげで壁には穴が空いたが、誰もそれを止めることは出来なかった。
「うお壁に穴が」
「お見事」
「あちゃあ、隣の国広部屋に貫通しなかっただけましか」
「篭手切、落ち着きなよ」
「まあわかるよ。本当は皆ああしたかった。僕だってそうしたかもしれない。どうせ本丸ごと解体して消滅するんだからそのままでよかったってね」
桑君が同情の色を示した。
「そうだね。人の倫理には反していただろうけど、良くやったと憂さ晴らしになる者もいただろう。稲葉もそう思うだろ?」
「我に意見を求めるな。これで我は天下を三度逃がしたのだ」
咳ばらいをしてどこか居心地の悪そうな稲葉江はそう返した。
「はは。これは手厳しい。すまないね」
ケタケタと笑う富田江はわざとやっているようにも見えた。こんなことになっても笑顔を絶やさない。さすが前田家伝来の名刀だ。
「え?いまの稲さんのブラックジョーク?」
「さすがです」
「豊前、五月雨、しーだよ」
「……コホン。とにかく主の部屋を今すぐ掃除してきてください。煤だらけで大変なことになってますから、ちゃんと磨くんですよ。汚す前よりも綺麗に!あとで見に行きますからね」
鬼の目はまだ黒いようで、睨まれてしまった。俺はしぶしぶ返事を返す。
「はい……」
「雲さん、お手伝いしましょう」
「雨さん……!」
手入れ後の俺を気遣ってか、雨さんは名乗りをあげてくれたが、残念ながらその提案は却下されてしまう。
「五月雨さん!!甘やかさない!」
「くううん……」
篭手くんの言葉によってすっかり萎縮してしまった雨さんは見えない耳としっぽを垂れ下げた。
*
溜息をつきながら拭き掃除をするとどうにも額汗が滲んでくる。灰というのは中々厄介なもので一度着いてしまったら完全に拭き取るのは至難の業だ。
手が焼けたことは気にしていないのだけど、まさか篭手くんをあんな風に怒らせるとは。悪いことをしてしまった。もちろん、あの時俺を止めた加州にだって凄く怒られたのだけど、恐らく今まで一番怒らせてしまった。
雑巾を扱いながら、手が回復していることに違和感を覚えた。
主が死んですぐだったからか、霊力の残りでなんとか手入れしてもらうことが出来たのだった。
「篭手くんに怒られちゃった。主の部屋、煤だらけにしただろって。ずっと大事にしてた部屋なのに掃除もせずにそのままで出ていってごめんなさい……。焦げ臭かったよね。……あはは、怒ってる?そういう事じゃないよね。ごめん。これで許してくれる?」
掃除を続けるうちにズレた袖を捲りあげると、再び畳に向き直った。ずっと掃除しているとなんだか楽しい気すらしてきて、気が付けば鼻歌を歌い出していた。
*
「村雲さん!これ主様のお部屋に」
夕飯を終えて、主の部屋に向かっていると祭りから帰って来たらしい軽装姿の粟田口の子たちと会った。五虎退君から差し出されたのは金魚の入った小さな袋だった。
「!!取ってきたの?」
「はい!」
驚いて袋を受け取ると、彼らは祭りの思い出を語ってくれた。余程楽しかったらしく、そのおすそ分けとして金魚を取ってきてくれたようだった。
「この大きいのは俺と五虎退がとって、小さいのは信濃がとったんだぜ!」
厚藤四郎は誇らしげにそう語った。
「そうなんだ……!ありがとう」
「結構苦労したんだからね!」
「ああ、大将もきっと喜ぶ」
薬研君が五虎退君の肩を撫でながらそう言うと、彼は凄く嬉しそうな顔で返事をした。
「はい!村雲江さんお世話かけます」
「いえいえ。じゃあ主に見せてくるね」
こんな時にまで礼儀が正しい五虎退君。眩しいなあと思わずにはいられなかった。
「お願いします!」
*
骨壺の側に金魚鉢を置いてみた。俺の記憶が正しければ、遠い昔大般若経長光が掘り出し物だと古市で買ってきたものだったが、今の今まで一度も本来の役割で活躍したことがないものだった。事情を説明すると嬉々として貸してくれた。
金魚鉢の中で二匹の金魚が対をなしている。赤色の小ぶりの金魚と体が大きな黒色の金魚。二匹は少し窮屈そうに泳いでいたが、水の中は自由らしい。そんなことには目もくれず自由気ままにやっていた。
「今日はお祭りがあったみたい。これ粟田口の子達が取ってきてくれたよ。………一緒に行ったのいつが最後だったかな?……またあの浴衣着てるとこ見たいなあ……箪笥から出しておけば主も……なーんて。またいつかだね」
少し水色のかかった金魚鉢に触れ、金魚をじっとみた。俺が来た年に、祭りに連れて行ってくれたこともあったっけ。あの時の主の浴衣はこの金魚鉢みたいに水色だった。
透明感があって綺麗な反物からできていた。箪笥から出して、一緒に行こう。なんて言ってたら主も踏みとどまってくれたのだろうか。そう考えても既に遅いし、またいつか、なんてことはない。もう二度と祭りに行くことは無い。俺じゃなくてもいい。誰でもいい。粟田口の子たちと、加州清光、今剣。誰かと行っていたら何かが変わっていたかもしれない。
揺れ動く金魚を見ながら、その小さな真紅の体に主を重ねた。
*
少し気温が落ち着いて、残暑の頃。本丸中はまるで蔵の中を全てひっくり返したように物に溢れかえっていた。
あれはどうするとか、これはどうするのか、何を捨てるのか。どれを売りどれを譲るのか。そんな話で持ち切りだった。特に売りに出す、という話題は聞こえてくるたびに耳が痛かった。大広間や廊下で、俺とすれ違う度にみんなが気を遣ってくれているのが分かった。しかしながらそれが逆に心を痛めるので、下手に気を遣うのもやめてほしい。
鶯丸、歌仙兼定が共同で集めた茶器、大般若経長光の骨董品、薬研藤四郎の調合した薬、水心子正秀の古文書、大慶直胤の刀剣図録、南海太郎朝尊のからくり、小竜景光の旅先で得たお土産、桑くんお手製の頑丈な農具、火車切の猫グッズ、福島光忠の庭園用具、地蔵行平の仏具、篭手くんのアイドルグッズ、挙げだしたらキリがない。収集癖のある刀たちを中心に苦労しているようだった。
「今日も大掃除だよ。みんな大変そう。……ここに居ていいのかな……。まあお役目だから役得と思うことにするけど、これをみんなの前で呟いたらさ松井に睨まれちゃった。経費の整理が終わってすぐだったから気が立ってるみたい。……松井ってなんだか猫みたいだよね。おっきな黒猫……いやおっかない黒猫かな?……この話松井には内緒だよ」
まるで耳打ちするみたいに小さな声で呟いた。松井江のことを猫みたいだというのは本丸中を探してもきっと俺達だけだろう。
俺は少しだけ悪戯そうな顔をした後、唇の前に人差し指を立てた。良かった。主しか聞いていなくて。──死人に口なしという訳だ。
*
掃除をしていたら出てきたと、鶯丸から曲の入ったアルバムを渡された。皆どこかにやってしまったと思っていたけど、引き出しの奥の方にひっそりとしまわれたままだったらしい。こういう時、何故だか分からないけれど鶯丸がよく見つけている印象があった。誰かが無くした物を「そこにあった」とだけ伝えて見つけ出してくる。まるで物の声を聞いているようだ。そのアルバムは年季が入った割に綺麗に残っていた。
「見てこれ。主が好きだったアルバム出てきたよ。昔よく聴かせてくれたよね。懐かしいなあ!こればっかり聴くせいで自然と皆も好きになって本丸放送で流してたっけ。そういえば、大倶利伽羅が触発されてベース買ってたねー……なんで今出てきたんだろうね?……あの時流せば主も喜んだかもしれないのに」
先日の葬儀では、主が好きでもない曲ばかりが流れていた。急なことだったし、審神者の間で流行っていると噂の終活ノートなんてものは無かったから、当然のこと
なのだけど。人は自分の葬式で流す曲を決めるのが好きなのだそうだ。それほど人は音楽が好きだと。かくいう主もこの歌手のことだけはずっと好きで何度も聴いていた。
ああ、葬式で流せばよかった。何故誰も思い出せなかったんだ。思い起こせば、すぐにでも脳内に響く旋律。記憶が覚えているのだから、改めて聴く必要はないのに人はどうして音楽を何度も再生したくなるのだろう。
「そうだ、今流しちゃおうか。……聴きたいよね?篭手くんにCDプレーヤー借りてくる!」
俺は部屋を飛び出して、篭手くんのいる部屋を急いだ。そうして曲を聴いたとき、忘れていた色んな感情や言葉、色、匂いまでもが思い起こされるようでなんとも言えない感情が込み上げてきた。ああ。だから人は何度も繰り返し音楽を聴くのか。
*
……ガタン。ガタガタ……。
障子の前に立ち塞がって彼らの侵入を拒むように部屋の入口を死守していた。彼らは力強く数で押し寄せてくる。
両腕の自由を奪われ、片足も動けないようにされてしまい、そして少しの隙間を狙うかのように障子の前にも鎮座する。敵は徹底的な陣形を取っていた。
ここで侵入を許せば主の安全は保証されない。単純に骨壷が割れると面倒だし、灰とか線香とか花瓶とか、彼らの好きそうなものが沢山あった。
なんでこんな細々したものを置いてるんだよ、やっぱ仏壇買った方が良かったじゃんか!経理の松井や博多の顔が浮かんで恨み節を吐きそうになった。
「……ッまっ……て!ダメダメ……〜〜ッッ誰か来て……ッッ……雨さん……!〜ッああ〜爪しまって!」
指先がぷるぷると震えてその何かと接戦を繰り広げるも虚しくも敗れたのは俺だった。
──五虎退の引き連れている五匹の虎がぴょんと跳ねて次々と割って入ってしまった。
俺はずるずると廊下に這いずり落ちて、半ば涙目になっていた。地面がヒンヤリして少し気持ちがいい。
「ああもう入っちゃダメだよ。メッ!コラ!……ああ〜入っちゃった。ごめん!動物苦手なのに。この子達いくらいっても聞かなくて。ひょっとすると寂しかったのかも……まあ今日くらいはいいかな?……大丈夫。怖がらないで。みんな優しい子だから」
何食わぬ顔をした虎たちは思い思いに好きな場所を陣取った。心配していたよりもずっと彼らはお利口で、物を荒らすことはなかった。
主の傍が最も人気であったが、中には主の身につけていた着物や膝掛けなど、主の匂いがするものに纏わりつく虎もいた。
その姿はまるで久しぶりに再会を果たすことができた母親と子のようだった。虎たちの瞳は潤んでいた。
きっとずっとこうしたかったのだろう。主は動物があまり得ない人ではなかった。見ているのは好きだったようだが自分の傍にこられるのがどうにも苦手だったようだ。
唯一見たことがあるのは、浦島虎徹の亀の甲羅を歯ブラシでゴシゴシと手入れしていることくらいだった。毛が無い動物ならまだ触れられるらしく、亀吉のお世話はたまにではあるがしていた。
ふと一匹が俺もといいたげに、五虎退や白山吉光の手によって整えられた毛並みのいい頭を彼の柔らかな頭にすりすりと擦り付けた。
小さなため息を零した後、虎達を優しく撫でて彼らと審神者を静かに見守った。
*
その日の午後はどこかどんよりした空気が漂っていた。なにも天気が悪いだけが理由ではない気がする。主が死んで十七日経った頃。生前可愛がっていた後輩である審神者が訪れに来た。ろくに仏壇も与えられず、骨壺と花と線香、供え物だけが簡素に用意された小さな机の前にその人は静かに座った。近侍の数珠丸恒次は一歩後ろで見守っている。
線香をあげ、しばらく何も話さなかった。現実を受け入れられないかもしれない。そうもそうだ。死後十七日は経過している。さまざまな手続きや調査の兼ね合いで、知人に報せを届け出たのは数日前のことだった。
「……」
ただただ沈黙が流れ、俺の腹痛がゆるやかに酷くなってきはじめたころ。堰を切るようにして、その人は話し出した。
「先輩……」
ぽつりと呟く声は全ての引き金となった。
「せん、ぱい……!!うっえっ、あっ、あああ……どうして……どう、どうしてあなたが……!!ああっああああああ!!…………!」
それまで我慢していたものが一気に濁流するようだった。酷い有様で泣き叫び、縋るように主を呼び続ける。見ていられなかった。
「あっ……うっ、うううう……」
心から主を慕っていたのだろう。涙が枯れることはなかった。
「どうしてこんな馬鹿なことをしたんですか……」
「主」
ちらりと俺をみて、数珠丸恒次は言葉を遮った。少しの間、目が合ってしまい視線を逸らした。
いいよ。こんな時まで気を遣わなくて。そう目で訴えかけると彼は会釈してくれた。
「あなたは誰よりも強くて、誰よりも気高く生きていたのに……ううう」
「……あなたに教わったことぜんぶ忘れません……自殺なんて私、信じませんから」
その人は泣きはらし酷い顔をしていた。主が面倒をみてきた中で最も優秀な後輩だったらしい。
俺はその姿をただぼうっと眺めることしかできなかった。俺には、あんな風に涙を流すことは出来なかった。近侍という重役に雁字搦めになって、最もらしい理由を考えるのに必死だった。俺なんかよりも断然主の事を考えている。そう思うと、罪悪感と自己嫌悪が募った。
*
あらかた済んだ後、部屋に戻るとぼうっと壁を見た。
「……お疲れ様。久しぶりの訪問でビックリしたね。……あー……ずっと思ってたんだけど、あの数珠丸さんすごく丁寧だしなんか仏オーラすごくない?だから後輩さんもいい人なのかな。いや、後輩さんがいい人だからあの数珠丸さんもいい刀なのかな?」
少しおどけるようなことを言ってみた。それは本心から来るものだった。
「主がいつか言ってた「あの子は審神者に向いていない」っての、よーく分かったよ。ああいう人はこっち側に来ちゃいけないんだ……可哀想に……」
人が死んで一々哀しんでいられるほど、審神者は楽な仕事ではない。優しすぎるから、あの子は審神者に向いていない。いつか主に聞いた言葉を心の中で反芻した。
客人の背中はどこか寂しげであった。それを支えるように近侍の数珠丸恒次は優しく寄り添っていた。
その姿をみて近侍とはこんなふうに距離が近くてもいいのかと、他人事ながらに思うのだった。それと同時に審神者に向いている人間とは、どういう人間なのだろうかと考えるのだった。
向いていれば重圧に押しつぶされずに済むし、仲間の死を哀しまなくて済むのだろうか。負け戦だと言われらほど審神者の数は足りていないのに、向き不向きなど言っていられるのだろうか。
主を失った今、俺には出せない答えが頭を駆け巡った。
*
気が付けば、主の部屋には刀剣男士の眷属たる動物たちが入り浸るようになっていた。
主の周りには白い小虎が五匹がどっしとりと構えていた。虎だけではない。小さな亀、大きく立派な真っ黒の鵺、白と茶色の狐二匹、まん丸の猫一匹が当たり前のようにそこにいた。みなわれが先にと審神者に撫でられることを望んでいるかのようだった。
しかしながら撫でられることは叶わない。仕方なく俺がそっと撫でてみるのだが、皆主から少しでも離れるのを嫌がった。
「こういうのって一度許したらキリがないんだよね。フフ。主のまわりみんなで囲っててなんか……ごめん。不謹慎なんだけど入滅した仏陀みたい、ほら、涅槃会図ってあるでしょ。あれだよ。……ンフフ。仏ジョーク、昨日の数珠丸さんに教えて貰って。ンフフ……ぷ…クク……ごめんなんかツボった。スーハー……そろそろ剥がすね。ほら、おいで!」
変なツボに入ってしまいひとしきり笑った。そこに主は寝ていないけれど、こうも動物たちが囲っていると、そう思わずにはいられない。顔を両手で叩き、心を入れ替えると動物たちを丁寧に剥がしていった。
こんな絶好の機会を逃すまいと虎たちを中心に最後まで粘ったのだが、その粘りも虚しく、引き剥がされていくのだった。どれも刀剣男士の相棒であり眷属だ。よく躾られていることもあって、誰一人としてしつこく抵抗することはなくて、やめ時を分かっているようだった。
*
少し気温が落ち着いて、熱帯夜から抜け出すことのできた本丸は涼しげだった。比較的湿気もそれほどではなく、夜風に吹かれた風鈴がちりんと鳴らす度に趣きが増す。
相も変わらず審神者の部屋にいる。背筋を伸ばして審神者に向き合うと昨夜の出来事を話してみた。それは俱利伽羅江が出演した映画の話だった。
最近は俱利伽羅江が正式に実装されたのだそうだ。しかしながら、主を失った俺たちは出陣ゲートすら閉ざされている。
どれ程彼の顕現を心待ちにしたところで、叶うことのな願いだった。報せが届いたとき、篭手くんが下唇を噛み言葉を慎んだ。その姿が忘れられない。他の者たちはただ純粋に映画を楽しんだけれど、俺たち江の刀はやるせない気持ちで観た。
「昨日の夜は皆で映画をみたよ。そう、あの子が出演した作品だよ。初めて見たけど、面白かったなあ。皆するとことも無いし、珍しく全振り集まって見てたよ。大広間パンパンになったや。主は映画館に観に行ったんだよね?試写会で声がかかったって昔言ってた気がするんだけど……ね、あの時は誰と行ったの?………あーやっぱなし。知りたくない……聞かなくてもわかる。初期刀殿でしょ。……!ッ……あっこれ違うから嫉妬じゃないからね!?」
わざとらしく顔を赤らめ茹で上がった頬を覆い隠すように、両手で見えなくした。主はもうこの世に居ないのに、「自分のせいで俱利伽羅江を迎えることができなかった」と察せないように、嘘みたいな言葉をべらべらと吐いた。自分でも驚くくらいの語彙が発揮される。篭手くんと沢山ドラマをみたことが活かされているのだろうか。
主を責めても、恨んでも結果は変わらない。主をそんなふうに思いたくはない。主を悪にはしたくない。主を悪にするくらいなら、自分が……
言葉の裏に色んな感情を隠しこめると次第に風鈴の音色と混ざりあっていき夜は更けていくのだった。
*
「はいこれ。……花屋のちゃんとしたのじゃないけど」
色とりどりの花が添えられた花束を主の前に差し出した。花選びのバランスとラッピング、総合的に見て決して豪華絢爛で美しいとは言えないものだったが、どこか温かみのある花束だった。アクセントに添えられた大ぶりのリボンは桜色と藤色。俺と雨さの二人を思わせる色だった。
「あー……雨さんがね、季語探しに出かけて主にって。一輪だと寂しいからってここに来るまでに長船とか三条とか粟田口とか、鵜飼派の2人とか、まあともかくみんなに捕まって気がついたらこんな事に……雨さんと俺からってことにしたかったけど、みんなから。……ここ飾ろうか?お気に入りの花瓶あったよね、ビー玉みたいな色のと、桜色のどっちがいい?俺のおすすめは桜色のだよ」
主を思って束ねられた花達はどこか誇らしげだった。まるでここへ来ることをずっと待っていたようだ。
当初の予定から外れ随分と立派な季語の詰め合わせになったが、「頭が季語を感じられたならそれでいい」と雨さんは言うだろう。
俺はそんなことをぼんやりと考えながら、雨さんに渡された最初の一輪を静かに取って、菊の花と一緒に飾る。
両手を合わせて、今日も一日時間遡行軍が来ませんように、仲間達にとって楽しい一日でありますように、お腹が痛くなりませんようにと祈るのだった。
*
両手いっぱいに広げた紙に目を通した後、瞬きを時間をかけて行った。その紙の版元は政府。所謂審神者たちのための情報誌、新聞だった。専門家による歴史コラム、神具の広告、万屋の割引日、かたや天候、かたや農作物の吉凶を見るための暦など、多種多様な情報が掲載されていた。
そこには当然の事ながら審神者の訃報も載っていた。当然のことではあるが、毎日のように人は死んでいる。それは主のように自殺であったり、他殺であったり、時間遡行軍による襲撃であったり、交通事故、病気、老衰様々であった。そこに掲載された故人たちの下にはかっこ書きで年齢も記載されている。主が一番若かった。
「見て。主のこと書いてる。昔に功労者で取り上げられたこともあったけど、まさかこんなふうに書かれるなんてね……。せっかくだし残しておこうか……実はもう一部あったんだけど、加州に見つかってね。すっごい顔しながら取ってきたよ。きっと燃やしたりでもするんだろう。この一部は咄嗟に隠しちゃってそれで今ここに。俺は……いいやこんなのなくったって誰も困らないね」
こんなくだらない新聞の一部でも主が生きていたと証明するものだと思うと隠してしまった。加州はこれに気が付いて、ものすごい剣幕で「そんなもの要らないでしょ」と言ってきたのだけれど、少し考えればそうもそうだった。
やがて消える本丸なのだから必要であるはずがない。手にしていた新聞を乱雑にくしゃくしゃにすると、焼却炉へと向かった。
*
静かな夜だった。行灯の灯火によって、腹痛で震える俺が障子に映し出される。それはあまりにも滑稽と言えたかもしれない。気温も低いせいか、カタカタと小刻みに震えて装飾品の揺れる音が微かに響く。
──明日、主の親族がこの本丸に来る。訃報の報せを受けて会いたいと申し出たのだそうだ。親族が来るのはこれが初めての事だった。それもそのはずだ。
審神者業は社会から断絶された非公開の職業である。スパイや殺し屋、表沙汰はならない職業とたもに都市伝説として語られている仕事であった。
主が死ぬまで審神者をやっていることすら知らなかっただろう。そう考えただけで、腹痛の種に十分なり得た。なんて罵声を浴びせられるか、予想がつくはずもない。
「…………明日、来るんだって。どんな顔してればいいんだろう……今更どんな顔したら。俺から話すこともないと思うんだけど……嗚呼。やっぱり、こういうのは初期刀が相応しいんだって……大体なんでこんな役目、俺なんかに……!!!クソッ…………。ッ!!……ごめん八つ当たりした。頭冷やしてくるね……ごめん」
思いの丈を吐露し気がつけば、腹痛をとうに超えるほどの痛みを主にぶつけていた。
そして我に返り真っ青な顔になった。否、顔面蒼白、と言った方が正しいかもしれない。全身から血の気が引き、やってしまったと後悔を募らせた。
ひりついた空気を抜け出すかのように、自身の刀をまるで杖のように扱いよたよたと立ち上がると、主の部屋を後にするのだった。
*
その人は主によく似ていた。目元にある泣きぼくろが形も位置も全く一緒だった。主の親族なんて初めて会ったけれど、恐らくこの本丸の全員が直感で親族と分かるくらいには似ていた。
本丸は特別な場所にあるため、政府職員が付き添いに来ていた。外で待機して暇そうにしているのが見えた。
「……久しぶり」
どこか乾いた声で主の母親はぽつりぽつりと話し始めた。加州清光と今剣から少し聞いていたが、主は決して家族と仲が良好だったわけでは無いらしい。
そのことから少し不安があって、この場には加州も同席してもらった。俺一人でどうともなる訳でないし、何か言われたときに一番強く出られるのは彼だと思ったからだ。
「こんな仕事してたのね。お役所仕事なんて言ってたけど、嘘じゃない……口座にゼロが三つも多いお金が振り込まれたと知った時、あなたが死んだ気がしたわ」
心が無い人だ。涙を流すわけでもなく淡々と話している。その様に俺と加州は絶句した。期待していたわけでもないが、とことん人を逆撫でするような話し方しかできない物言いに不信感を抱いた。本当に母親なのかと。
「……馬鹿な子ね。こんなに美しい神様?たちに囲まれていたのに。何が不満だったんだか。骨は持って帰らないわ。審神者の遺骨なんて薄気味悪い」
主の遺骨は親族のみ持ち帰ることが許されていた。政府で管理することもできないため、本丸の解体と共に消滅することが決まっていたのだ。そのためこの世で唯一、骨を持ち帰ることができる人間だったのに。
一歩後ろで座っていた加州は居ても立っても居られなくなって立ち上がると怒号が飛び交った。
「あんた母親だろ!主になんてこと!!」
「母親だからってね、なんでも受け入れてやれるわけじゃないのよ」
「なっ……」
「……じゃあね。ちゃんと手は合わせたからこれで勘弁して」
母親は大きなボストンバッグを主の前に置くと、そそくさと帰って行ってしまった。その鞄の中身は察するに口座に振り込まれたという遺産だった。
*
二人きりになった部屋に室外機の音だけが無機質に木霊した。やがてその静寂を破ることにした。発する言葉は重く、考えがまとまらない。
「……家族ってなんだろうね。ああ……その……俺には家族っていないから。まあ江の皆が家族って言われるとそうなのかもしれないけど。みんなとは本丸で初めて会ったわけだし。刀剣男士として顕現する前は刀だったし……主は家族とはどうだった?家族ってどんなもの?温かい存在?それとも……」
先刻みたばかりの、世間一般的に理想とされる家族とはあまりにも程遠い光景に胸やけがした。家族だからって無理に仲良くすることもない。上手くいく家族も上手くいかない家族もこの世にはあって、主はたまたま後者だっただけだ。
実の母親なんかよりも後輩の方がよほど主を想っていた。主を大切に想うがあまり、涙すら流していた。あの人の方がよっぽど家族らしいじゃないか。世の中間違っていることだらけだ。
「本丸を家族だっていう審神者は多いけれど……俺たちは主にとって家族になれたのかな…………あっ!こっ、これ変な意味じゃないからね!?」
主にとって家族になれていたならどれだけ良かっただろう。主は一度も俺たちのことを家族だなんて言ったことは無かったけれど、皆の間では家族だと認識されていた。
しかしながらこの今の考えをうまい具合に伝える言葉を俺は知らない。堰を切ったように、赤面してしまい顔を隠した。
審神者にとっての家族、刀にとっての家族とはどういう形をしているのだろうか。きっとそれは本丸によって違う答えを持つものである。
そうだとするなら審神者が守りたい家族とは俺たちだったのだろうか。主が死んだことには何か意味があったのだろうか。家族を守る何かが。
*
景趣が変わり、部屋からは真っ赤な彼岸花で覆い尽くされた庭が良く見えた。見ていて少し目がチカチカする位の赤だった。
花々が紅をさして美しい光景ではあるものの、どこか"彼岸"を意識させられるようだった。此岸と彼岸が誠にあるとすれば、この本丸はどちらに存在するのだろう。そして自分たちはどちらの存在なのだろう。
「秋分の日だって。景趣も彼岸花に変わったね。……彼岸花ってなんか怖いくらい綺麗でちょっと苦手かも。そういえば、雨さんから花言葉を教わったんだけど……知ってる?いや、いい。知らないならいいんだ」
──また会う日を楽しみに
それが彼岸花の花言葉だった。まるで俺たちと主のようだと思い、喉元がひりつくような感覚を覚えた。またなんていつ来るんだろう。そう思わずにはいられなかった。
「……そうそう、お彼岸入りってたしか昼と夜の長さが同じになって、今日から段々気温が低くくなるんだよね。できるだけ寒くならないといいな。主、寒いの苦手でしょ。俺も苦手。お腹痛くなるし。……覚えてるよそれくらい。フフ、なんだと思ってるのさ」
寒いのは嫌だ。お腹が痛くなるし、寂しい気がするから。どうか寒くなる前に四十九日目がきますように。
*
いつもより少し人気のない本丸だった。何人かが外出している。主の母親から突っ返された遺産に俺たちはみな頭を抱えていた。このまま使わないでおくと、政府に寄贈されて終わるのがオチだった。
それはどこか違う気がして、総務の刀たちが話し合いをした結果、ぱーっと使うことにした。それが一番の供養になると思ったからだ。
そのため最近はほとんどの刀が旅行に出かけている。小竜景光は四国を一周すると言っていたし、九鬼正宗率いる正宗派が船旅に出ているし、雨さんも北に行くと言っていた。俺もついて行きたかったけれど、本丸を離れるわけにはいかなかった。
「左文字派と琉球刀で温泉に行ってるんただって。北谷菜くんが熱いのはあんまりって言うのを江雪左文字と千代金丸が押し切って連れて行ったんだよ?案外二人とも強引だよね。兄弟揃ってだし、家族旅行に近いのかな?……いいなあ温泉。俺も行きたかった。今度雨さんと行こうかな。ちょうどいい季節になってきたし。ああーでも雨さん一度入ったら全然出てこないんだよ。これも季語とか言ってずっと詠むんだ。どうやったら出てきてくれるんだろう?」
ふと脳裏に浮かんだのは、湯に浸かりすぎて茹でダコのようになった雨さんだった。江の面々でも長風呂の彼はよくのぼせては心配ばかりしていた。
今度の旅行では誰も止めてあげることが出来ない。今のうちに釘を刺しておかなければ。
*
相も変わらず酒盛りばかりしているらしい本丸内は賑わっていた。そろそろ酒が切れてもおかしくは無いのだが、どこから手に入れてくるのか酒飲み達の腕の中には気がつけばやれ菊正宗だの獺祭だの山崎だのがすっぽりと埋まっていた。
その喧騒にもすっかり慣れてもはやいつもの事だと隅の方から見ていた。
「今日も今日とて宴会だよ。なんだっけ?誰かが送別会って言ってたけど最早誰の送別会か分からないよ。俺はもう二度とあんな失態を犯さないために飲んでません!ふふん。偉いでしょ。さっきね、鬼丸国綱と小烏丸に呼び止められたんだけど、ここは飲んだフリしとけって言われてお水渡されたんだ。彼らって結構気が回るよね。年の功っていうのか……?余裕があるよね」
先の大侵攻で大活躍していた二振りはすっかり隠居の顔をしていた。この頃は飲んでばかりいるらしい。いや、この頃に限らず常日頃飲んでいたか。
「ああそうだ、明日の競走は姫鶴一文字と千代金丸、厚くん、五虎退くん、巴形薙刀、火車切、御手杵、白山くんが出るんだって。見事に馬思いの刀ばっかりだ。……豊前のこと応援してるんだ。見には行けないけど、きっと豊前が勝つって信じてるよ」
同じ刀工に打たれた刀だからだろうか。豊前江を信じる気持ちに嘘偽りはなかった。これから始まる競争に俺は応援に行けないけれど、きっと勝鬨をあげてくるだろう、そう信じてやまなかった。
その思いは他の江のもの達も同じらしく、既に勝った時負けた時用にと祝い酒とつまみ、そして野菜を用意しているようだ。もちろん指揮は篭手切江がとっていた。正直なところ勝ち負けには関係ないようだった、ただ江の者同士が集まって笑えあえばそれでいいんだ。
*
少しガランとした本丸にどこからか馬の嘶きが聞こえてきた。それは豊前江の放った鬣の立派な馬であっただろうか。誰も知る由はなかった。耳を澄まして、その声をよく聞いてみる。聞いていないと忘れてしまいそうだから。
「……馬を放ったんだ。一頭じゃないよ、皆だよ。今までずっとお世話になったからねお別れするのちょっと寂しかったな。姫鶴一文字が丹精込めて育てた月毛は後輩さんのところに受け入れてもらったよ。豊前の相棒だった三国黒は、なんにも囚われずに走りたそうだったから山に放したんだって。豊前ったら柄にもなく少し泣いてたよ。豊前も泣くことあるんだね。……大丈夫。異空間じゃないし、きっと楽しく駆け回ってくよ。売られるよりも遥かにいいよ」
──売られるよりも遥かにいい。その言葉には重みが伴っていた。いつまでも止みそうになかった馬の嘶きは、気がつくと遠のいてしまい、やがて聞こえなくなってしまった。
ふいに「達者でな」という刀たちの声も重なった気がしたが、はてそれは愛馬にむけて言った言葉だったのかそれとも自分達にも言い聞かせていたのか。やまびこで返ってきた「達者でな」に皆くすりと笑った。
*
随分と物が減った本丸にも兆しは来ていた。気がつけば足音も少なくなっている。大広間を囲う座布団の数も、道場で打ち合いをする木刀も、祠の前で柏手を打つ音も随分と寂しいものとなった。
しかしながら幼い刀たちにはまるで関係ないようで、楽しそうな声が聞こえてくるとふっと笑みがこぼれた。
「粟田口の子に紛れて髭切がかくれんぼしているんだって。この本丸も随分片付いたし、隠れるところが減ってきたけれど、楽しそうでなにより。にしても彼は鬼役が上手いんだよ。知ってた?一度だけ交ぜてもらったことがあるけれど、見つけた時にニィって笑いながらみいつけたあっていうのが怖いから、俺は見てるだけで十分……。そういえば髭切って大侵攻の時にいた新しい刀剣男士にどことなく似てたよね?……考えすぎかな?あの彼はいつ実装されるんだろうね?……俺らにはもう関係ないか」
先の戦では確かに新たな刀剣男士と思わしき影があった。それは髭切のようにも見えたし、鬼丸国綱のようにも見えたし、小烏丸のようにも見えた。主の意向により童子切安綱 剥落を受け取らなかった本丸では、蚊帳の外だという認識があった。
あの時は特に気にも留めなかったけれど、主はどうして剝落を迎えなかったのだろう。その時点で死ぬことを決めていたのだろうか。だとしたら計画的な自殺と言えるのだけれど。
現代に帰ったのも政府に出向してすぐの出来事だった。政府で何かあったのだろうか。何かを知ったのか……?
そう考えを巡らせても、結局のところ遺書がすべてだった。理由は語られていない。いくら詮索したところで真相は神のみぞ知るのだ。考えるのをやめよう。そう思って少しため息を着くとふと障子の外から声がかかった。
──聞けばそれは鬼ごっこに参加しているという刀の声だった¿
「てけあ、んーさもくらむ」
「ん、誰か来たみたい。はーい。え?隠れ場所にしたい……?」
重たい腰を上げて静かに立ち上がり障子に近づいた。明らかにうちの刀ではない。ついに時間遡行軍がここまでやってきたのか。
「…………来るならもう少し上手くやってよね………はぁ」
障子の外の刀と自分──その影は何重にも重なった。相手の影はどう見ても幼き刀の姿とは似ても似つかわしくない物だった。
それを見つめる俺の瞳の奥は底の無い闇のように黒く、底なしの沼のように濁っているかのようだった。
鞘に手をかけ、刀を握る利き手に力を込め次の瞬間──刀を持ったと同時に敵を真っ二つに斬り捨てた。
*
噂には聞いていたが、本当に時間遡行軍が来るなんて。霊力が少しずつ枯渇しているところを知っていて狙っているのだろう。膝丸、髭切から何振りか敵を斬ったと報告があった。
いとも簡単に進入できるようになっているのが歯がゆい。これ、最終的には俺一人で全部斬らなきゃいけないのかな。それは嫌だな。
──昨日からの予期せぬ来訪はまるで容赦がなかった。本丸中に充満するどんよりとした空気感に圧倒されそうになる感覚に村雲江は背後からぞわりと込み上げるものを覚えた。
しばらく出陣しないうちに刀の握り方を忘れてしまったような、それはあまりにも重く苦しいことのような気がして、慎重になりながらも鞘から刀身を抜き始めた。
またも現れた時間遡行軍に驚いて、俺は目を見開いた。昨日のように刀剣男士に偽装している様子もなく来る包み隠さずくる様に呆気にとられたのだ。
「……!……本当に来るんだ……遅かったね。待ちくたびれたよ。敵が悪で、俺が正義…?それとも……」
雲間からさす満月の眩い光はあまりにも力強くて、障子越しに射抜いてくるようだった。その刹那──刀身に光が落ちたか、時間遡行軍が刀を振りかざした瞬間か、どちらが早かっただろうか。
障子ごと叩き斬るとそれは砂嵐のように空気中に霧散していった。かわりに派手に破けた障子の和紙が垂れ落ちて月が虚空を照らす。「眩しい」と小さく呟きながら、刀身に反射した満月をじっと見た。
「褒めなくていいんだ」
いつもの癖でそう呟いた。誉れをとって褒められることも、進軍をせずに怒られることも、腹痛で遠征に行きたがらないことも咎める主はいないというのに。
ふいにそう意識すると頬に涙が伝った。おかしいな。毎日主の骨壺に手を合わせていたし、棺だって暴こうとしたのに、たった今はじめて主が死んだって分かった気がした。
主、いまどこにいるの。その魂はいまどこを泳いでいるの。
*
「それでは行ってくるよ」
総勢百振り以上のこの本丸の全ての刀剣男士が仲間の旅立ちに立ち会っていた。それは修行や遠征とは全く異なっていて、この場所には二度と帰らないことを意味していた。仲間を送り出すために、皆思い思いに言葉をかける。
政府が顕現した刀は生きて、主が顕現した刀は本霊に還る。死とは少し違うが、死ぬこととほぼ同義に思えた。
「達者でな」「僕たちのこと忘れないでください」「またいつか会いましょうね」「カカカ!笑っていればよい」「働きすぎひんようにな」「国行はもっと働かないと」「ええ、もう十分やろ」「ずっと見ていますからね」「畑当番をしなくて済むようになったからって怠けるなよ」「ほう?偽物くんの口は最後まで生意気なようだな」「こら最後まで喧嘩しないでください!」「「喧嘩じゃない」」「はは兄弟はほんとに仲良しだなあ」「むぎゅーさみしいよー!」「さぼるにゃよー」「きっちり働けよじじぃ」「うはは、善処する」
「村雲江。ちょっと」
山姥切長義が合図をするので駆け寄ると、小さな声で耳打ちを始めた。
「政府は主の死を単なる自殺だと処理したけれど、あれはただの方便だよ何か隠しているに違いない。組織を知る俺たちはそう思っていてね」
矢継ぎ早に何を言うかと思えば。互いに目配せをした。気が付けば水心子正秀、源清麿もすぐ近くにいた。
「……そうだとしてどうするの」
出来る限り平然を装った。主の死なんて、ただの自殺じゃないことくらい誰もが分かっていた。それでも出陣ゲートも時間遡行装置も強制停止された今、調査する術はない。
第一部隊、総務部の刀たちが資料から探ったが、本丸から出るものは何もなかった。死者の墓を暴くことは叶わなかったのだ。
「調査する」
「できるの?」
「ああ。鬼は必ずいるからね」
彼は鋭い目つきで答えた。曇りようのない瞳で自身の信念を貫いていた。
「私も山姥切長義に同意だ。この真相を必ず突き止める」
水心子正秀は拳を固く握りしめた。
「こうなったら二人は止められないよ。諦めて」
源清麿は当然のことだと言いたげにくしゃりと笑った。俺とは違って、希望のある刀たちだと思った。ここにいる仲間たちが、彼らが生きることに全てを賭けているのだ。
言葉では決して言わないけれど、真実を掴むことを諦めてなんかいなかった。
「……どうぞご勝手に……」
我ながらなんて薄情な言葉かと思った。熱い言葉でもかけてやるべきだろう。今はそういう時だと直感的には分かっていたが、主が語らなかったことを無理に暴こうとする彼らを肯定することは出来なかった。
俺の反応をみて三人は村雲は最後まで村雲だな、なんて言いながら笑いあった。ボケじゃないんだけどな。
「ああ、そうさせてもらうよ」
「後は頼んだぞ。村雲江よ」
「僕たちの代わりに最後まで見届けてね」
「うん……行ってらっしゃい」
やがて時は満ちて彼らは政府へと移送された。この本丸を知る者がこの世には八振りもいる。そう思うと、どこか心が軽くなるような気がした。
*
昨夜から一夜経ち月が少しずつ欠け始めた。それと呼応するように、この本丸の刀も──
「……政府が顕現させた彼らが古巣へ戻ったよ。予定より早まったんだ。人手不足、なおかつ本丸での実績経験のある彼らは願ったり叶ったりの人員補充になるんだって。ほんとに勝手だよね。……まあ殆どの政府刀がこの本丸が最初で最後だと思ってただろう。……本丸を出る前に山姥切長義が「鬼は必ずいる」と、水心子正秀が「必ず突き止める」なんて言ってたよ。……馬鹿だよなあ。政府に戻ったら記憶なんて全部消されるかもしれないのに。他の刀もみんな同じ思いだなんて顔してさ。俺達のしてきた事が、主が貫いたことが正義だなんて誰が決めるんだよ……クソ……」
行き場のない怒りを拳に込めて畳を叩きつける。山姥切長義をはじめ、政府が顕現した刀たちが元の場所に戻った。理不尽に仲間を奪われることを誰も咎めはしなかった。
それどころか彼らの帰還が唯一の希望だと考える者もいた。而して何度考えても結論は変わらない。この本丸の行く末を俺はただ固唾を飲んで傍観する他ないのだった。
*
小さく煙が上がる。風なんて吹いていないのにその煙は空気中にゆらゆらと漂いどこかへ消えてしまう。
それは江の彼らが審神者に向ける最後の餞別であって、村雲江が審神者の部屋に常駐するようになって嗅ぎ慣れた白檀の香りだった。
「篭手くん、豊前、松井、桑くん、稲葉、富田……雨さんが還ったよ。………いま思えば、雨さんが先に顕現して俺を待っていた。篭手くんなんか最初は一人だったんだよね。待つのはどれだけ退屈で寂しかっただろう。みんな居たからそうでもなかったのかな。……どうだろう。はは。最後に聞けばよかったな。もう待つことも出来ないんてさ。それならずっと待っていたかったし、待たせていたかったよ。雨さんのことも。主のことも。……雨さんに貰ったどんぐり、捨てられないんだ……。あと少しでこれも消えてしまうのに。どうして物が物を持ってしまったんだろう。どうして大事にしてしまうのだろう……どうして俺はまた……」
──どうしてまた捨てられるの。そうは言えなかった。言ったら全て終わってしまう気がした。
両手の中にあるどんぐりをぐっと握った。あまりにも必死に握るため、指がくい込んで内出血を起こした。色んな感情が一気に押し寄せてきて、主の前であるにも拘わらず酷く顔を歪ませた。
*
朝。目覚めると忽然と骨壺が無くなっていた。しかしなんとなく行き場所は分かっていた。焦る気持ちを無理やりに抑えて、鍛刀部屋へ向かうと、少しだけ戸が開いていた。
刀を顕現させる霊力はどこにもないのに、炎が上がっていた。自分もろとも燃えるつもりなのだろう。
美しい白髪から炎が透けて赤く反射している。小さな体にためらいは無かった。
「あるじさま ぼくといっしょにいきましょうね」
「今剣くん」
近寄って彼の肩を叩いた。余程余裕が無かったらしい、短刀ほどの偵察力がありながら俺に触れられるまで気が付かなかったようだ。
「!むらくもごう……」
目を見開いた彼は瞬きをしている間に、一気に距離を取ってきた。機動力では勝てないのが目に見えて分かる。対話でどうにか出来るか。緊張が走った。
「じゃまするんですか」
「邪魔だなんてそんな」
「じゃあだまって みていてください」
「それはできない」
赤く鋭い眼光で彼は睨む。気後れしそう。主が初めて霊気させた刀なのだ。力ではどうにだって勝てない。こういう時、岩融がいてくれれば。数日前にいなくなった彼の顔がふと浮かんだ。
「どうして」
「どうしても……」
「こたえになってません」
骨壺を持つ手に力がこもるのが見えた。
「そうだね。答えにはなってないね」
「あるじさま ひとりでかわいそうです」
「可哀そうとか可哀そうじゃない。主はきっとそんなの望んでないよ」
冷ややかな声で諭すも、彼には届かない。光の失った瞳は変わることは無かった。彼なりにずっと抱えていたのだろう。主の最後を看取ることができなかったことも、俺が最後の近侍に選ばれたことも、ずっと。
「……むらくもはしっていますか あのよはくらくてこわいんです いちどだけ ここにきてすぐのときに、あるじさまがまちがってしんぐんしたから おれたことがあるんです おまもりでかえってきたけど ぼくはおれたんですよ」
「……!」
思わず耳を疑った。折れた?今剣が?予想だにしていなかった回答に言葉をつまらせた。
「しらなかったでしょう。かしゅうとあるじさまとぼくだけのさんにんのひみつですから」
三人だけの秘密だと語る彼の表情はほのかに柔らかい。刀身が折れる。それはどれだけ痛くて辛かっただろう。想像に耐えない苦しみに絶句した。
「あのよはくらくておそろしい みんなかわをわたるためにひっしでした」
──川。三途の川のことだろうか。
「かわのちかくにはおそろしいものがいっぱいなんです。ただでさえ、ろぎんをはたいてふねにのるのに おにをふりはらための ぶきやようじんぼうをやとわないと かわはわたれないんですよ」
「そうなんだ。でもそれは君である必要はないよね」
自分から折れる必要はない。今聞いている話だって、全部作り話かもしれない。額に汗が垂れていく感覚を疎ましいと思いながらも冷静さを装うのに必死だった。
「どうして?ぼくならあるじさまのようじんぼうになれますよ だってぼく、あるじさまのためのかたなだから あるじさまはぼくたちをつかって たくさんてきをころしましたきっといくのは じごくですよ」
曇りなき眼で今剣は答えた。地獄。天国。そんなもの本当にあるのだろうか。あったとして付喪神が行ける場所なのだろうか。全て確証のないことばかりだった。
「……物語にしかいない刀が本当にあの世で用心棒になれるのかな」
「えっ……」
今剣が修行で出した答えを叩きつける。それは酷なことだったけれど、必要だと感じた。
「たとえ、あの世に行けたとしても、今剣は値段という価値を付与されていない。そんな刀があの世にわたって主に買わせようしても、無理だよ。君は源義経の愛刀であり主の愛刀だったんだ。閻魔様ですら価値のつけようがないくらい文句のない刀なんだ」
現実はいつだって残酷だ。彼の出した答えを利用する自分に嫌気がさして、全身が軋む痛さを覚えた。
「そんな、じゃあ、あるじさまはひとりで……」
力の抜けた今剣はへたりとその場に座り込んだ。肩を震わせ小さくすすり泣いた。幼い彼に再び現実を見せたことへの罪悪感が募った。自分でも物事の「価値」なんて
話したくもないのに。どうしてこうも言葉が出てしまうのだろうか。
「心配しないで。ここに二束三文の都合のいい刀がいるでしょ」
自分でも何を言っているか分からない。出まかせの言葉だった。
「!!……ほんきですか」
瞳孔を大きく開き、大粒の涙が頬を伝うのが見えた。
「おれるのは おなかがいたいとはわけがちがいますよ」
「うっ……なんとかする」
その痛みを少し想像するとお腹が痛くなってきそうだった。骨が硬直する感覚がして、腸が締め付けられる気すらした。
「……わかりました。あるじさまのことはむらくもごうにまかせました」
しばらくの沈黙のあと今剣は決意を固めた。手にしていた骨壺を渡してくると、今剣は先ほどとは打って変わって晴れやかな表情を浮かべた。
「これでこころおきなく かえることができます」
ふいに今剣の体が桜に包まれる。政府による強制刀解の合図だった。
「むらくもごう、かしゅうきよみつ、あるじさま ありがとう またあそんでくださいね」
瞬きをしている間にその刀は跡形もなく消えてしまった。桜の花びらが一片宙に舞って、やがて炎の中に散って行ってしまった。
ふと感じていた視線に振り返ると、加州が立っていた。
「……聞いていたんだ」
「まあね」
「どいつもこいつも勝手すぎるんだよ。ほんと」
気怠そうに言う彼は、伸びをしてあくびをかみ殺している。
「さっきの話だけどあれは」
「嘘だよ。彼を止めるための嘘だ」
「なら良かった。絶対折れないで。俺、二度と仲間を折れさせないって決めてるから。誰も知らないところで折れられたら胸糞悪いから」
そう言いながら、加州は自分に与えられたこの本丸でたった一つの桃のお守りを手渡してきた。驚いて呆気に取られていると無理やり鞘に括り付けて来た。すぐには解けないように紐を何度もぐるぐると巻いて。
「川なんて渡るなよ」
真っ直ぐに見てくるその瞳は力強くて、思わず後退りしたくなる気持ちを隠した。
*
人も物もここにあった全てのものが忽然と姿を消して伽藍としていた。残されたのは二振りの刀と審神者のみ。まるで本丸の始まりの日を思い起こさせるようだと初期刀の加州清光は言った。
自身が顕現するよりもはるか昔の話なのに安易に想像が出来てしまうのは何故だろうか。途方もなく続く長い廊下に出て、庭にかかった橋を見ているとあの日を追体験できるような気がした。
「初期刀──加州清光。大和守安定と同じくして沖田総司の愛刀。……池田屋事件において帽子が折れその後所在不明。初鍛刀──今剣。源義経が愛用していた伝説の刀剣。衣川の戦いで源義経の最後を見届けたとされていたが、"彼"がみた過去からして存在しない刀であり、人々が語った物語であった、と」
淡々と来歴を話すのはまるで自分に言い聞かせているようだった。
今この時にもその真紅の目は自分に向けられている気がした。言葉を紡ぐ度に眩暈がしそう。それでも向き合わなくちゃいけない。
「数奇なものだね。この二振りが主の特別な刀なんて。主は俺たちを選べるけど、俺たちは主を選べない。俺たちは守れることはできても人を永久に生かすことはできないだ。……俺の役目は向こう側に行こうとする彼を止めて元に還すことだったんだね。なるほど、これには初期刀、初鍛刀では務まらないわけだ」
加州清光でも今剣でもない、俺が近侍に選ばれた理由。行きたくてもいけない場所。今剣はあの世で見たものを審神者に話したことがあるのだろうか。例え話していたとして、主は何故信じたのだろうか。少し考えを巡らせて「今剣」であることに妙に引っかかりを感じた。俺の仮説はやっぱり間違ってなんかいないんじゃないか。
*
すっかり静まり返った本丸にただ一人、審神者に向かい合う。百振り以上もいた刀は俺を残して本霊に還った。正真正銘の二人きり。
小さく呼吸を重ねる。何度も折れる想像をしては体中が拒絶反応を起こす。驚いた。出陣が嫌で戦いたくない、と常日現実逃避をしていたけれど、死を盾に現実逃避するのはこんなにも怖いことなんだ。ああ。主、死ぬとき怖かっただろう。どれだけ苦しい思いをして死にたどり着いたんだ。
いなくなった人達の顔が走馬灯のように駆け巡る。強烈に瞼の裏で残っているのは、彼の真っ直ぐすぎる瞳だった。
「加州清光が還ったよ。遂に俺と主、二人きりだ。彼、最後まで主のことよろしくって。………強い刀だよ。俺が選ばれたこと、一度も責めたりしなかったんだ。主のこと心から信頼してたから、最後まで信じたんだろうね。手合わせも練度も彼には勝てたことなかったな」
本丸一の刀剣男士と謳われた加州清光は、名実ともに誰よりも強い刀であった。初期刀であり本丸の始まり日から審神者を支え、練度もとっくの昔に上限に達していた。心身ともに強く、誰よりも仲間を思いそして誰よりも審神者を人として主として慕っていた。
──あの日、審神者を迎えに行ったのも彼だった。
「ねぇ、もしも主が寂しいっていうのなら俺は……なんでもない。忘れて」
もしも主が川を渡れずにいるのなら。もしもその場所が暗くて、寂しい思いをしているのなら。
いいかけた言葉を嚥下する。主はとっくに成仏して聞いていないはずなのに、どうして俺は話しかけてしまうのだう。まるで主がそこにいるみたいに思えるのはどうしてなんだろう。ゆっくりと瞼を閉じて、明日が来るのを静かに待った。
*
「今日で四十九日か」
跪坐をして主と向かい合っていた。今更かもしれないけれど、俺なりの最大限の忠義を表すためのものだった。
「長かったような短かったような。主が俺を最後の近侍に選んだ理由、ずっと考えてたけど分からなかったや」
四十九日間に及ぶ言の葉達の裏にはいつも漠然とした謎があった。主や仲間を介して限られた時を共有し、自分の納得する理由を探し続けた。
「今日が本丸最後の日なんて、はやいなあ……俺もしておこう。じゃん!雨さんお気に入りの線香だよ。託されてんだ。さすがに使い切れなかったけども」
マッチで火をつけて小さな火を線香に移す。灰にさすとゆらゆらと煙が上がり、手を合わせた。
菊の模様があしらわれた純白の骨壷が無機質に置かれていた。この白いただの箱に主が眠っていると思うと変な気がした。
「 ……正義や悪なんてのはどうでもよかった。だってもう死んでしまったから。死者の正邪を後の人間が決めつけることは墓を暴く行為だ。そんな愚昧なことは無いからね」
葉月二十日余六日。主の命日。その日は蝉がよく鳴いていた。
茹だるような暑さの日、初期刀である加州清光は主が首を吊っている姿を発見し、泣き崩れたのだという。
果たして見つけたのが俺だったなら、同じ涙を流せただろうか。自身の役目はそうしたことでは無いと考えてた。二束三文の本当の役目は──
「今剣が話していたこと考えてみたけど、彼は嘘をつくような子じゃないと思う。考えてもみてよ、物語の中で生まれてきた刀だよ。作り話で人を苦しませるような子じゃない。だからさ……」
「ごめんね。加州」
鞘に巻き付けられていた刀剣御守を丁寧に解いた。それは複雑に絡んでいたけれど、時間をかけて解いた。
御守りを畳に置いて、刀を抜刀するとひと思いに斬った。耳には「絶対折れないで」という彼の声が纏わりついていた。
真っ二つに裂けた御守からは小さな桃の花びらが舞い散って途端に枯れてしまった。
その様をじっと見届けると刀を乱雑に放り出して壁に立てかけてあった唐鍬を手に取った。それは桑くんが愛用していたものだった。柄の部分には彼の名前が彫られている。名前が掘ってあるせいで、売りに出せなかったのだ。この本丸にはいくつかそういったものが残っていた。
皆があまりにもここの生活を楽しむから。人としての営みを全うしたせいで、誰にも明け渡せないものが多かった。どうせ消失するならとそのままにしておいたのが
こんな形で使うことになるなんて。本当に農具で折れるか自信は無かった。
けれど、桑くんが愛用していたなら、俺よりも重いなら破壊できると確信があった。ふい彼の刻印と目が合った。迷いはなかった。本丸にあった全てを愛する気持ちやそれらを失ってしまったものを哀しむ気持ちが一気にぶり返してきて、どうにかなりそうだった。
桑くん。こんなことに使って本当にごめん。「桑名江」と彫られたその名前がまるで勇気を与えてくれるようだった。江の皆がここにいて、一緒に持っていてくれるようだった。
ふふ、篭手くんの介錯、痛くないんだろうなぁ。桑くんなら溶けて農具になりたいとか思うのかな。雨さんなら辞世の句でも詠むのかな。豊前なら早すぎて見えないだろうなあ。松井ならできるだけ沢山血を流すのかな。富田なら顔色ひとつ変えないし、稲葉なら弱音なんて一切吐かないんだろうな。
肩が震えそうになったのを押さえて、手に力を込める。刃は自分を向いている。
浅い呼吸を繰り返し天から地にかけて、刀身めがけて勢いよく振りかざした。
俺は折れて、小さな破片が飛び散る。それと同時に肉体が裂ける感覚がして気が付いたら口から血を吹き出した。
なんだよ。滅茶苦茶痛いじゃん。ほんとにお腹が痛いじゃすまないじゃん。こんなに痛いならもっと詳しく教えてよ。そうやって泣き言を吐きたくなる口も裂けていた。
だけれど、ふいに浮かんだ思いは──
「……ようやく、正義も悪もない場所へ、……いけるんだ」
瞼をゆっくりと閉じると、俺は川を渡った。
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神無月十日余三日
肥後国 本丸番号××××××××サーバー××××× ××× 本丸の消失を確認。
政府顕現の刀剣男士は移送を完了。計八振りの記憶を改竄。
審神者顕現の刀剣男士は本霊に帰還。ただし近侍であった村雲江の生体反応が途絶えた。状況からして刀剣破壊の可能性が高いとされる。
本丸へのゲートを完全に消去したため調査は不可能。
これより本丸の所有権を政府は完全に放棄する。
報告は以上とする。
.ᐣ
「また死んでしまった」
「刀剣は皆、旅立つものよ」
「……行きましょう。ここにもないわ」
「うむ。運命はここに巡りきたる」
甲・了
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