川を渡って

以前こちらで掲載していた「川を渡って」昨日をもちまして、完結いたしましたので改めて掲載しにきました。

とうらぶのお話で、村雲江が一日に一言ずつ審神者に話しかけるお話です。

刀剣破壊表現あり、ホラー要素も少しだけあり。暗いです。なんでも読める人だけお願いします。


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これより肥後国、本丸番号××××××××サーバー××××× ××× 本丸 審神者の命により本日付で刀帳番号二百番 村雲江を████に任命する。

やけに冷えきった畳と一体化するように村雲江は背中を丸めていた。暑苦しい夏だというのに審神者の部屋は酷く冷えていた。

主人の前だからとせめてもの思いで正座をしているが、それはただの鉄くずつと変わりがないようだった。

「………なんで俺なの…なんで………俺なんかを選んで……はあ…考えても仕方ないか………」

どこから拾ってきたのか、どこからこの美しい彫刻は掘り出されたのだろうか。人間の誰もが羨むような顔には暗い影がおとされている。

その美しい顔には赤く染まる鮮血がまるで通っていないようだった。

一等低い声で彼はその言葉を吐いた。

手にしていた刀を強く握りしめて、物憂げな表情を浮かべ、ゆっくりと瞼を閉じ、ただその日が平穏に終わることを切に願うのだった。


小さな隔たりひとつ。畳の縁は審神者と村雲江の境界線だった。村雲江は音も立てずに刀置くと、少し気だるげに息を吐いた。

「今日は……勘定番長の博多と松井と雲生が手分けして経費の整理をしたよ。主がマメに仕事してくれてたおかげで、ほとんど手を焼くことがなくて皆びっくりしてたよ」

その表情は昨日と打って変わって、どこか柔らかく暗雲が晴れているようにも思えた。

目尻に皺を作っているためか、それは不器用な笑い方だったのかもしれない。

相も変わらず審神者の部屋は冷えきっていて、村雲江の指先に灯された薄紅梅はほんのりと赤みを増していくのだった。


僅かながらに襖が開いた。審神者の部屋に村雲江が覚束無い足取りで入る。

本能寺にでも出陣してきたのだろうか、その腕は煤だらけで、思わず鼻を背けたくなるような臭いを漂わせていた。

「……炎って熱いんだね。さっきね、人になって初めて炎の中に飛び込んだんだ。っていっても腕だけど。……俺が打たれた時なんかよりも涼しいものだと思ってたし、大慶直胤にああ言われたのに、熱かったなー……。確かに熱かった……みてこの手。もう戦えないかも。まあ今から治してもらうんだけどね」

審神者に見せつけるように自身の両手を広げて見せた。村雲江の手は酷く爛れていた。

その手は刀すらまともに握れなくなっており、骨すら溶けてしまったのかと見紛うほどだった。

やがて村雲江は何かを諦めたように審神者の鎮座する場所をじっと見続け数刻経った後、静かに立ち上がり、審神者の部屋を後にした。


溜息をつきながら内番服に身を包んだ村雲江の額には汗が滲んでいた。

片手には濡れた雑巾を手にし、畳の溝という溝を拭きあげる。先に掃き掃除をしたものの、灰というのは中々厄介なもので一度着いてしまったら完全に拭き取るのは至難の業だ。

それはまるで村雲江の火傷した皮膚が剥がれ落ちてゆき、畳に染み込んで消えないようだとさえ、錯覚させられるようだった。

「篭手くんに怒られちゃった。主の部屋、煤だらけにしただろって。ずっと大事にしてた部屋なのに掃除もせずにそのままで出ていってごめんなさい……。焦げ臭かったよね。……あはは、怒ってる?そういう事じゃないよね。ごめん。これで許してくれる?」

冗談を言う村雲江は掃除を続けるうちにズレた袖を捲りあげると、再び畳に向き直った。昨日までの不穏な表情とは打って変わって今日はどこか楽しいようにも見えた。

はたして何が楽しいのだろうか。村雲江は鼻歌を歌いながら掃除を続けた。


審神者のそばに立派な金魚鉢が置かれた。その中で二匹の金魚が対をなしている。赤色の小ぶりの金魚と体が大きな黒色の金魚。二匹は少し窮屈そうに泳いでいたが、水の中は自由らしい。そんなことには目もくれず自由気ままにやっていた。

「今日はお祭りがあったみたい。これ粟田口の子達が取ってきてくれたよ。………一緒に行ったのいつが最後だったかな?……またあの浴衣着てるとこ見たいなあ……箪笥から出しておけば主も……なーんて。またいつかだね」

少し水色のかかった金魚鉢に触れ、村雲江は金魚をじっとみた。しかし彼の瞳にはいつかみた審神者の浴衣姿だけが浮かんでいた。

その姿は今も記憶に新しく、色褪せることがない。彼にとってそれほど大事な思い出の一つだったのだ。


本丸中のそこかしこから騒ぐ音がする。村雲江ただ一人を除いて各々忙しなく働いていた。

少し気温の落ち着いた部屋で、村雲江は思い出したように語り出す。

「今日からしばらく掃除だって。みんなバタバタしてたよ。俺はここに居るからあんまり出来ることがないんだけど……持ち物とかほとんど持ってないしちょうど良かった。ああでも、雨さんに貰ったどんぐりとかは捨てられないな……主は何を残して欲しい?ふふ……全部は無理だよ」

自身の鞘に視線を落として、彼は少し残念そうに愛想笑いを浮かべた。

なにせ何十年もここで過ごしてきた審神者だ。荷物は多く、整理をするのも一苦労。何を残して何を処分するのか、刀剣男士達は思い悩んでいるに違いない。


古びた万年筆を手に審神者に見せた。

茶色を基調とした色は手に持っていると馴染むようだが、少し重量があって執務には向かないようだ。相当昔のもののようで、数箇所傷がある。

「ねえ見てこれ。主が奮発して買った万年筆出てきたよ!確かこれヴィンテージものだったのにあんまり使わなかったんだよね。あまりにも高すぎるから松井に怒られてたの思い出してみんなで笑ってたんだよ。

百年持てば付喪神も宿るかななんて言ってたっけ。……ハハ。あーおっかしいな……」

万華鏡みたいにくるくる回してみて見る村雲江はくすくすと笑った。ずっと無くしたと思って無くしたことすら忘れてしまっていたのだ。いつ自分も忘れられ売られてしまうか、村雲江なりに万年筆と自身を重ねてみた。


ドタドタ……!バタン。

軽快な足音が近づいてきたと思えば、それは審神者の部屋の前で突如として止まる。

障子がけたたましい音で開け放たれて、興奮気味の村雲江は審神者の元へと駆け寄る。村雲江の手の中には光る端末があった。

「主!!!みて!これ!!広報本丸の雨さん。新作公演出演だって!!!すごいよね。ここの雨さんずっとひっきりなしに出演してるね。俺だったらお腹痛くて絶対無理だ……凄いなあどこの雨さんも本当に凄いや」

どうやら広報本丸が新しく公演をやるらしく、村雲江は嬉々として端末を眺めた。この本丸の村雲江はかなり落ち着いた性格だったため、大好きな五月雨江が広報で活躍しようとも、それを実際に観劇しに行くことはありもしないことだった。

ただ、どこかの五月雨江が頑張っている、そう思うだけで彼は勇気を分け与えられていたのだ。村雲江はそう知れただけで十分だった。


少し気温が落ち着いて、残暑の頃。本丸中はまるで蔵の中を全てひっくり返したように物に溢れかえっていた。

あれはどうするとか、これはどうするのか、何を捨てるのか。どれを売りどれを譲るのか。そんな話で持ち切りだった。

「今日も大掃除だよ。みんな大変そう。……ここに居ていいのかな……。まあお役目だから役得と思うことにするけど、これをみんなの前で呟いたらさ松井に睨まれちゃった。経費の整理が終わってすぐだったから気が立ってるみたい。……松井ってなんだか猫みたいだよね。おっきな黒猫……いやおっかない黒猫かな?……この話松井には内緒だよ」

村雲江は耳打ちするみたいに小さな声で呟いた。松井江のことを猫みたいだというのは本丸中を探しても江のもの達だけだろう。それは彼らの間にしかない信頼関係があってこそのものだった。

村雲江はちょっとだけ悪戯そうな顔した後、唇の前に人差し指を立てた。──口なしという訳だ。


空には暗雲が立ち込めて、今にもひと雨来そうだった。時折吹く強い風は障子を震わせる。

湿気のこもる部屋に、村雲江はため息をついた。いつまでも正座しているのも馬鹿らしくなって、彼は胡座をかいた。

「台風が近づいてるんだって。現世と気候をリンクさせたままだからみんな対策におわれて大変だよ。被害が出ないように設定されてるけど、アレって審神者しか設定出来ないんだよ?初期刀の加州ですら変更できないんだからね。知ってた?…………もー…………。おかけでずーと眠たくて仕方ないや……ちょっと寝ようかな……おやすみ」

審神者直々の命により、この本丸の景趣は現世とリンクしていた。現世で雨が降れば本丸でも雨が降り、現世で雪が降れば、本丸でも雪が降る。

季節感を大事にする審神者のことだ。自然の摂理に倣うことは美しく、歌仙兼定や古今伝授の太刀には常々好評だったが、それは自然に抗うことを諦めていた、とも言える。

化学の発達した今代においてそれは自然に負けたと認めてしまうような行為だった。

しかし村雲江はそんなことを一切気にもとめず、ただ審神者のやりたいようにやらせるだけだった。

それは彼にとって美徳だったからだ。重たい刀を畳に預けると、次第に船を漕いでいった。


十一

雨がひとしきり降ったあと、審神者の部屋から見える梅の木が陽の光を浴びようと葉っぱを伸ばし雫を垂らしていた。

村雲江は上着を脱いでセーターにシャツという身軽な装いをした。その表情はどこか気だるげで、端的に言って眠たそうにも見えた。

「今日はお勤め休んじゃった……サボりじゃないよ。ただ気が緩んだだけっていうか……ここに居てもう十日以上も経ったんだよ。そりゃ俺だってそろそろ眠くなっちゃうよ……そもそもここには……あー……ごめん。言い訳。居眠りしてごめんなさい」

謝罪の言葉と共に村雲江は審神者に向かって両手を合わせた。そうして手を下ろすと彼は少し神妙な顔つきをし、再び上着に袖を通すのだった。


十二

晴れ渡る空に月がよく映えていた。

雲間から確かに輝き存在感を放つ月は満月へと近づいていく。

昨日のどんよりとした天気はなんだったのか。過ぎ去ってしまえば、台風など無かったようだった。

「台風一過だって。何事もなくて良かった。……そういえばみんな台風コロッケ?っていうの食べて楽しそうだったよ。なんで台風の日にコロッケ食べるんだろうね?あ、俺はカニクリームコロッケが好きだよ。たくさんは食べられないから、いつも雨さんに半分こして食べてもらってるんだ」

大広間に広がる油の匂い。揚げたてのかぐわしい匂いは空腹へと誘う。村雲江は食が細い方ではあるが、食べるのは好きな個体だった。誰かと食べることは楽しいことだと、仲間や審神者から教わったからだった。


十三

村雲江の手には古びた音楽アルバムがあった。それはデータ配信の溢れた現代において時代錯誤と言えるくらい古いものだった。若者の感性から見れば、時代遅れとも言える代物だった。

随分古いものなのだろう。傷がついていて何度も再生されたように見えた。しかしながら大切に扱われたらしい。傷の割に綺麗に残っている。

「見てこれ。主が好きだったアルバム出てきたよ。昔よく聴かせてくれたよね。懐かしいなあ!こればっかり聴くせいで自然と皆も好きになって本丸放送で流してたっけ。そういえば、大倶利伽羅が触発されてベース買ってたねー……なんで今出てきたんだろうね?……あの時流せば主も喜んだかもしれないのに。そうだ、今流しちゃおうか。……聴きたいよね?篭手くんにCDプレーヤー借りてくる!」

思い起こせば、すぐにでも脳内に響く旋律。記憶が覚えているのだから、改めて聴く必要はないのに人はどうして音楽を何度も再生したくなるのだろう。

村雲江はそんなことを考えながら審神者の部屋を後にし、そしてその意味を知ることになるのだった。


十四

蝉も鳴くことをやめた頃。夏が終わり、どこか物悲しい空気が本丸中に流れていた。それは単に気温が落ち着いたからなのか、入道雲を徐々に見つける頻度が無くなってきたのか、そんな単純なことではないようだと村雲江は考えていた。

「今日は畑当番の桑くんと物吉くん、謙信くん、御手杵たちが野菜を収穫したよ。夏最後の収穫だって。ゴーヤとか色々採れたみたい。実は俺ゴーヤって苦手なんだよね……桑くんの前では絶対言わないけど。作ってもらったのに文句なんて言ったら悪いもん……意外だった?うん、こういうの隠すの得意なんだ。実は雨さんのが分かりやすいよ」

村雲江はそう言いながら脳裏に収穫されたばかりの栄養たっぷりのゴーヤを脳裏に浮かべた。好き嫌いがあまりない彼にとって、ゴーヤは天敵ともいえる存在だった。しかし身内には農業を愛する桑名江がいる。嫌いといって一蹴りできるほど、村雲江は我が強い刀ではなかった。


十五

「そういえば昨日のゴーヤで思い出したんだけど、主っていつもブラックコーヒー飲んでたね。というか、ゴーヤもピーマンもにんじんもよく食べてたよね?もしかして苦いの好きだったの?……早く言ってよ。いくらでもあげたのに。ハハ。うそうそ。桑くんにバレたら怖いからしないよ」

夕陽がやけに美しくさした審神者の部屋で村雲江はケタケタと笑った。

桑名江はその容姿ゆえ表情の見えない刀剣男士だったが、村雲江は十分分かっているようだ。

彼は鬼の角を再現してすごい形相の桑名江を審神者に再現してみせた。その姿はどこか無邪気で子供のようだった。大人びて落ち着いている村雲江はこんなふうにふざけて見せるのは滅多にないことだった。


十六

……ガタン。ガタガタ……。

障子の前に立ち塞がった村雲江は何かを拒むように部屋の入口を死守していた。その"何か"は力強く数で押し寄せてくる。両腕の自由を奪われ、片足も動けないようにされてしまい、そして少しの隙間を狙うかのように障子の前にも鎮座する。敵は徹底的な陣形を取っていた。

ここで侵入を許せば審神者の安全は──

「……ッまっ……て!ダメダメ……〜〜ッッ誰か来て……ッッ……雨さん……!〜ッああ〜爪しまって!」

指先がぷるぷると震えてその何かと接戦を繰り広げるも虚しくも敗れたのは村雲江だった。

──五虎退の引き連れている五匹の虎がぴょんと跳ねて次々と割って入る。

村雲江はずるずると廊下に這いずり落ちて、半ば涙目になっていた。

「ああもう入っちゃダメだよ。メッ!コラ!……ああ〜入っちゃった。ごめん!動物苦手なのに。この子達いくらいっても聞かなくて。ひょっとすると寂しかったのかも……まあ今日くらいはいいかな?……大丈夫。怖がらないで。みんな優しい子だから」

何食わぬ顔をした虎たちは思い思いに好きな場所を陣取った。審神者の傍が最も人気であったが、中には審神者の身につけていた着物や膝掛けなど、審神者の匂いがするものに纏わりつく虎もいた。

その姿はまるで久しぶりに再会を果たすことができた母親と子のようだった。虎たちの瞳は潤んでいた。

ふと一匹が村雲江もといいたげに、五虎退や白山吉光の手によって整えられた毛並みのいい頭を彼の柔らかな頭にすりすりと擦り付けた。

村雲江は小さなため息を零した後、虎達を優しく撫でて彼らと審神者を静かに見守った。


十七

──その日は珍しく審神者の元に客人が来たのであった。その人物は審神者が初めてできた後輩であり、審神者業を共にする仲間でもあった。

村雲江は客人を丁重にもてなしその帰りを見送った。

あらかた済んだ後、審神者の部屋に戻ると村雲はぼうっと壁を見た。

「……お疲れ様。久しぶりの訪問でビックリしたね。……あー……ずっと思ってたんだけど、あの数珠丸さんすごく丁寧だしなんか仏オーラすごくない?だから後輩さんもいい人なのかな。いや、後輩さんがいい人だからあの数珠丸さんもいい刀なのかな?…………主がいつか言ってた「あの子は審神者に向いていない」っての、よーく分かったよ。ああいう人はこっち側に来ちゃいけないんだ……可哀想に……」

久しぶりに再会することができたものの、客人の背中はどこか寂しげであった。それを支えるように近侍の数珠丸恒次は優しく寄り添っていた。

その姿をみて近侍とはこんなふうに距離が近くてもいいのかと、村雲江は他人事ながらに思うのだった。

それと同時に審神者に向いている人間とは、どういう人間なのだろうかと考えるのだった。


十八

先日虎たちの侵入を許してからというものの、審神者の部屋には刀剣男士の眷属たる動物たちが入り浸るようになっていた。

審神者の周りには白い小虎が五匹がどっしとりと構えていた。

虎だけではない。小さな亀、大きく立派な真っ黒の鵺、白と茶色の狐二匹、まん丸の猫一匹が当たり前のようにそこにいた。みなわれが先にと審神者に撫でられることを望んでいるかのようだった。

「こういうのって一度許したらキリがないんだよね。フフ。主のまわりみんなで囲っててなんか……ごめん。不謹慎なんだけど入滅した仏陀みたい、ほら、涅槃会図ってあるでしょ。あれだよ。……ンフフ。仏ジョーク、昨日の数珠丸さんに教えて貰って。ンフフ……ぷ…クク……ごめんなんかツボった。スーハー……そろそろ剥がすね。ほら、おいで!」

変なツボに入ってしまった村雲はひとしきり笑ったあと、顔を両手で叩くと動物たちを丁寧に剥がしていった。

こんな絶好の機会を逃すまいと主に虎たちを中心に最後まで粘ったのだが、その粘りも虚しく引き剥がされていくのだった。どれも刀剣男士の相棒であり眷属だ。よく躾られていることもあって、誰一人としてしつこく抵抗することはなくて、やめ時を分かっているようだった。

それはこの本丸の威厳を指し示すようでもあった。


十九

少し気温が落ち着いて、熱帯夜から抜け出すことのできた本丸は涼しげだった。

比較的湿気もそれほどではなく、夜風に吹かれた風鈴がチリンと鳴らす度に趣きが増す。

相も変わらず審神者の部屋を訪れた村雲江は、背筋を伸ばして審神者に向き合うと昨夜の出来事を語り出した。

その姿はどこか楽しげに見えた。

「昨日の夜は皆で映画をみたよ。そう、あの子が出演した作品だよ。初めて見たけど、面白かったなあ。皆するとことも無いし、珍しく全振り集まって見てたよ。大広間パンパンになったや。主は映画館に観に行ったんだよね?試写会で声がかかったって昔言ってた気がするんだけど……ね、あの時は誰と行ったの?………あーやっぱなし。知りたくない……聞かなくてもわかる。初期刀殿でしょ。……!ッ……あっこれ違うから嫉妬じゃないからね!?」

派手に顔を赤らめた村雲江は自分の茹で上がった頬を覆い隠すように、両手で見えなくしてしまった。

この状況でその言葉で嫉妬じゃないと言うのならなんだと言うのだろうか。やけに饒舌に言い訳を並べ続ける村雲江と風鈴の音色が混ざりあい、夜は更けていくのだった。


二十

「はいこれ。……花屋のちゃんとしたのじゃないけど」

村雲江はそういいながら色とりどりの花が添えられた花束を審神者に差し出した。花選びのバランスとラッピング、総合的に見て決して豪華絢爛で美しいとは言えないものだったが、どこか温かみのある花束だった。

アクセントに添えられた大ぶりのリボンは桜色と藤色。江の二振りを思わせる色だった。

「あー……雨さんがね、季語探しに出かけて主にって。一輪だと寂しいからってここに来るまでに長船とか三条とか粟田口とか、鵜飼派の2人とか、まあともかくみんなに捕まって気がついたらこんな事に……雨さんと俺からってことにしたかったけど、みんなから。……ここ飾ろうか?お気に入りの花瓶あったよね、ビー玉みたいな色のと、桜色のどっちがいい?俺のおすすめは桜色だよ」

審神者を思って束ねられた花達はどこか誇らしげだった。まるで審神者の元へ来ることをずっと待っていたようだ。

当初の予定から外れ随分と立派な季語の詰め合わせになったが、「頭が季語を感じられたならそれでいい」と五月雨江は言うだろう。

村雲江はそんなことをぼんやりと考えながら、五月雨江に渡された最初の一輪を静かに取るのだった──


二十一

愉快な笑い声が本丸中に響いていた。その笑い声は岩融を筆頭に古い刀たちが張り上げていた。その声はやたらと上機嫌で、村雲江は眉を八の字にして口を開き出した。

「敬老の日だって。三条の皆と小烏丸、七星剣、抜丸、丙子椒林剣がやたら本丸を練り歩いてたのはこのせいだったんだね。なーんか妙に構ってほしそうだなって思ってたけど……。主からすれば皆おじいさんだよね?俺もおじいさん?……うーん、主が孫だとしたらなんだろ?肩叩いて欲しいかも。いやお腹さすってほしいな。……これじゃいつもと変わらないか!ハハハ」

村雲江とて審神者からすればかなり古い刀に部類される。刀剣男士達からみるとしたら若いと共通認識を持つのは和泉守兼定だろうか。

それでも遡ったとしても江戸時代であるが、審神者は彼らが打たれた年代に古いも新しいも関係なく分け隔てなく接していた。

だからこそ、村雲江はこんな冗談を言って老人ぶっては忌憚のない笑顔を見せていた。時折産まれたての子犬のように甘えて見せるし、かと言って年の功だといいだけに審神者に説教をすることもあった。


二十二

今日は午後から少し雨が降っていた。しとしと降る雨は、暗雲を広げ続け本丸中を濡れ鼠にした。

村雲江は相変わらず審神者の部屋に居座っている。雨が降れば思うことは一つ。彼の半身とも言える存在、五月雨江のことだった。

「雨さんがね主のこと気にかけてたよ。あー……俺のこともなんだけど。雨さんってさ忍びだからか、一匹狼感ありそうっていうか、集団行動とか苦手そうなのにそんな事ないんだよね。季語のことになれば周りのこと見れなくなるけど。意外と合わせるのが得意って言うか、気を遣うのも上手なんだよね。雨さんみたいに影の側近みたいなこと出来ないからさ、上手くやれてるか不安だよ……そんな事ないって言うんだろう?……もう」

分を悪そうにした村雲は頭をかくと、少しだけ口角をにやりとあげて眉を八の字にした。

"負け犬の腹痛を癒す五月雨" とは実に言い得て妙だった。村雲江の不安を取り払うかのように、五月雨江はいつも手を差し伸べていた。

それが必然であって当然のことだと五月雨江は信じてやまなかったからだ。他本丸の二振りは所謂恋仲になる者も多いらしい。この本丸ではそうした間柄では無かったが、それでも確かに二人にしか分からない親愛と友情がそこにあって、村雲江はいつも助けられてばかりでいた。


二十三

村雲江は両手いっぱいに広げた紙に目を通した後、時間をかけて瞬きを行った。

その紙の版元は政府。所謂審神者たちのための情報誌、新聞だった。専門家による歴史コラム、神具の広告、万屋の割引日、かたや天候、かたや農作物の吉凶を見るための暦など、多種多様な情報が掲載されていた。

そこには当然の事ながら審神者の情報も載っていていた。先の大侵攻作戦による稀有な調査報告から、検非違使の出現時代の分布等が見受けられた。

「見て。主のこと書いてる。昔に功労者で取り上げられたこともあったけど、まさかこんなふうに書かれるなんてね……。せっかくだし残しておこうか……実はもう一部あったんだけど、加州に見つかってね。すっごい顔しながら取ってきたよ。きっと燃やしたりでもするんだろう。この一部は咄嗟に隠しちゃってそれで今ここに。俺は……いいや。こんなのなくったって誰も困らないね」

手にしていた新聞を乱雑にくしゃくしゃにすると、村雲江はどこかへ行ってしまった。


二十四

山を駆ける蹄の音。軽快なその足音は豊前江と彼の愛馬である三国黒の帰城を知らせてくれる。

沢山走り回って興奮した嘶きはまるで夕方の時報だった。夕陽に染まっていく本丸に美しい鬣がよく映える。村雲江は特段馬が好きという訳ではなかったが、馬と相棒と呼べるほどの関係を築いていることに、どこか憧れていた。

「豊前が最近おかしいんだ。取り憑かれたように馬ばっかり乗っててさ、もちろん面倒みてるんだけど率先して馬当番ばかりしてるから、同室の松井に臭いって怒られてた。ふふ。松井ってさ豊前のこと慕ってるように見えるけど結構ちゃんと怒るんだよ。なんであんなに馬と過ごしてるんだろうね?俺は………可愛い子たちではあるんだけど……俺より高いからちょっとだけ気まずいっていうか……」

作業終わりで気が立っている松井江が豊前江の帰りに気がつくと瞬く間に雷が落ちた。それは審神者の部屋からも微かに見ることが出来て、村雲江は「ほらね」と言いたげに耳を塞ぐのだった。


二十五

村雲江はうずくまって、頬骨に冷や汗を一筋垂らした。苦しそうに手を腹に当ててセーターをぎゅっと掴む。

それは彼の来歴から来るものなのか、それとも本丸で過ごす中で積もった心意的なものなのか。片時感じること無かった痛みは忘れた頃にやってきた。

「いたた……お腹痛い。なんか久しぶりに痛くなってきた……なんでだろう?最近はこんなに痛くなること無かったんだけど。う……ごめんちょっと楽な体勢になってもいい?ごめん……あ、あのちゃんと仕事はするからね。痛いからって主の傍を離れたりはしないから……売ったりしないよね?…………いっ……た……いたた」

よほど余裕が無いのか、それほど迄に腹痛が耐えきれないのか、村雲江は半ば涙ぐみがら必死に訴えかけた。

悪いものでも食べたのか、悪い報せでも受けたのか。いずれにせよ審神者の知る由もないのだった。


二十六

静かな夜だった。行灯の灯火によって、腹痛で震える村雲江が障子に映し出される。それはあまりにも滑稽と言えたかもしれない。

その痛みは昨日より酷く苦しいように見えた。気温も低いせいか、カタカタと小刻みに震えて装飾品の揺れる音が微かに響く。

「…………明日、来るんだって。どんな顔してればいいんだろう……今更どんな顔したら。俺から話すこともないと思うんだけど……嗚呼。やっぱり、こういうのは初期刀が相応しいんだって……大体なんでこんな役目、俺なんかに……!!!クソッ…………。ッ!!……ごめん八つ当たりした。頭冷やしてくるね……ごめん」

思いの丈を吐露した村雲江は気がつけば、腹痛をとうに超えるほどの痛みを審神者にぶつけていた。

そして我に返り真っ青な顔になった。否、顔面蒼白、と言った方が正しいかもしれない。全身から血の気が引き、やってしまったと後悔を募らせた。

ひりついた空気を抜け出すかのように、自身の刀をまるで杖のように扱いよたよたと立ち上がると、審神者の部屋を後にするのだった。


二十七

二人きりになった部屋に室外機の音だけが無機質に木霊した。

やがてその静寂を破ったのは村雲江だった。発する言葉は重く、どこか考えがまとまらないようだった。

「……家族ってなんだろうね。ああ……その……俺には家族っていないから。まあ江の皆が家族って言われるとそうなのかもしれないけど。みんなとは本丸で初めて会ったわけだし。刀剣男士として顕現する前は刀だったし……主は家族とはどうだった?家族ってどんなもの?温かい存在?それとも……。本丸を家族だっていう審神者は多いけれど……俺たちは主にとって家族になれたのかな…………。あっ!こっ、これ変な意味じゃないからね!?」

堰を切ったように、赤面しだした村雲江は顔を隠してしまった。そうして隠す術しか今の村雲には持ち得無かったからだった。

審神者にとっての家族、刀にとっての家族とはどういう形をしているのだろうか。きっとそれは本丸によって違う答えを持つものである。

そうだとするなら審神者が守りたい家族とは──


二十八

本丸の大掃除、と言えどそれは単に整理するというのもではなくて、個々の私物すらも手放すということを意味していた。それはもちろん物に限らず、万屋の割引券から、アーティストのライブチケットまで多岐にわたる。刀剣男士達はその現状に文句を言うでもなく従うままだった。

村雲江の脳裏にはつい先刻みたばかりの仲間の舞がくっきりと思い浮かび上がっていた。

「篭手くんがね例のライブのチケット他本丸の子に譲るんだって。すごく落ち込んでたけど……こればっかりは仕方ないよね。皆気を遣って元気になってもらおうとしたんだけど、これが上手くいかなくて……そしたら、「いつまでも塞ぎこんでるんじゃない」って稲葉が言い出して、稲葉と富田が二人で踊って見せてくれたんだ!パフォーマンスって言うんだよね?篭手くん、すごい鼻血だして元気になってたよ。ついでに鼻血を見た松井も……。かっこよかったな二人とも。何だかんだ言って面倒見いいんだよね」

二人が踊ったという曲を口ずさみながら、村雲江は楽しげに揺れた。歌やダンスは決して得意ではないけれど、見ることは好きになれていた。それは篭手切江の教育の賜物であった。

二十九

審神者の部屋からは真っ赤な彼岸花で覆い尽くされた庭が良く見えた。見ていて少し目がチカチカする位の赤だった。

花々が紅をさして美しい光景ではあるものの、どこか"彼岸"を意識させられるようだった。此岸と彼岸が誠にあるとすれば、この本丸はどちらに存在するのだろう。そして自分たちはどちらの存在なのだろう。

村雲江は考えを巡らせ、毒を持つという花を薄らと目で追った。

「秋分の日だって。景趣も彼岸花に変わったね。……彼岸花ってなんか怖いくらい綺麗でちょっと苦手かも。そういえば、雨さんから花言葉を教わったんだけど……知ってる?いや、いい。知らないならいいんだ。……そうそう、お彼岸入りってたしか昼と夜の長さが同じになって、今日から段々気温が低くくなるんだよね。できるだけ寒くならないといいな。主、寒いの苦手でしょ。俺も苦手。お腹痛くなるし。……覚えてるよそれくらい。フフ、なんだと思ってるのさ」

主人のことを良く知る彼はくすくすと笑った。審神者に仕える刀剣男士達は百振りをとうに越えていた。審神者にとっては百振りいる刀だが、刀にとって主はただ一人だ。

審神者の好きな季節、審神者の苦手な季節、指折り数えて待つ記念日。それら全てを彼らは共に過ごしてきた。ひょっとすると刀剣男士の方が審神者のことをよく知っているのかもしれない。


三十

いつもよりも遅れて審神者の部屋を訪れた村雲江の髪には四角くてカラフルな紙がついていた。それは紙吹雪に使用されるような可愛らしい紙だった。

村雲江が座布団に座って少し頭を下げるとヒラヒラと落ちてしまった。それを愛おしそうに見てふっと笑った彼は先刻の出来事を語り出した。

「今日は桑くんが実装された日だよ。ささやかだけど江の皆でお祝いしたんだ。ケーキ食べて、野菜も食べて、ふふ。食べ合わせ最悪だよね。ケーキはもちろんきゃろっとケーキ?っていう人参がメインだったんだけど……でも不思議と嫌な感じはしなかったよ?これってさもう洗脳済みってこと?俺の頭まで野菜だらけになっちゃった。あーなんかやばい正気に戻ってきたかも。やっぱ嘘!なしなしさっきのは嫌だった……かも!!」

余程野菜が好きになったらしい村雲江は冷や汗をかきだし現状を憂いた。しかしながらどう足掻いてもそれは変わらない。野菜とケーキという対極的な二つを食べ合わせて喜んでいるのだ。

桑名江による野菜教育は既に洗脳済みだったということである。もしかすると江の次の被害者は村正派の二人になるかもしれない。

村雲江はふとそんなことを考えて、まさかと思いながらも唾と共に流し込むのだった。


三十一

ミーンミンミンミーン…………

蝉の声がどこかで鳴いていた。

暑さ寒さも彼岸まで──そうは言ったものの、現代の人類には通用しない気候変動が起こっていた。

少し気温が落ち着いたかと思ったのはどうやら人間たちだけでは無いらしい。どこかでこの好機を伺っていた蝉たちがその鳴き声を轟かせ、まるで自分たちはここにいると存在を証明しているようだった。

「元気だなあ。もう九月も終わるのに、今までどこに居たんだろうね?……そっか、今日であの日から一ヶ月経ったんだ……主が帰ってきて一ヶ月……蝉の声はあの日を思い出すから好きじゃない。夏はどうしようもなく嫌いだよ。……ねえ、どうして俺なんかを██にしたの」

その声はまるでまだ夏が続いていくのだと訴えかける呪いのようだった。

やけに耳にこびりついて劈くような蝉の声に村雲江は聞こえないふりをした。

そうして彼の問は答えるられるはずもなく、ただただ鳴き声がかき消していくのだった。


三十二

覚束無い足取りでふらふらと審神者の部屋に押し入った村雲江の顔は真っ赤に染まっていた。

足のつま先からてっぺんまで、耳までも蛸みたいに真っ赤になった村雲江は端的にいうと酒に溺れて上機嫌だった。部屋中にふわりと漂う上質な日本酒の香りは村雲江の髪の先からも漂っているよう。

口元を緩め楽しそうにした村雲江は、呂律の回らない口で審神者に語りかけゆっくりと距離を縮めた。

「あるじ〜〜!!今日はぁ、、次郎太刀と日本号、祢々切丸があ、、本丸中のお酒開けるんらって、大宴会したんだあ、俺はぁお役目があるからぁってぇ断ったんらけど、なんか無理やり飲まされちゃって、ンフフ。しかもねえ〜?酔っ払った篭手くんに口移しされちゃった〜!!これって間接きすって言うんらよね?んふふ、あはは……!ごめんさっきから笑いがとまらなくて、ごめん、抑えるね。…………ぷ。ぷぷ。あはは!らめらあ〜!収まんない。えへへ。は〜……お酒飲むらけで幸せだなぁ。は〜あるじもおさけのむ?んふ?俺口移しれきるよ、さっき篭手くんに教わったもん。…………ぷ。うそだよ!期待した?アハハ……!…………ふぁ、ねむ……おやす、み…………」

ひとしきり暴走してぷつとり電池が切れてしまった村雲江は、審神者の膝元近くで倒れ込むように仰向けになった。

村雲江がこれほど酔っ払うのは初めてのことだった。これほど酔っ払っているのだから、来訪を止めてやれば良かったものの殆どの刀剣男士が同じ状況にあったので、正常な者がおらず誰も止めることは無かったのだ。

そうして僅か数秒で寝息を立てるのだった。


三十三

中型犬のような唸り声を上げ続け、腹痛に悩む村雲江は頭を抱えうずくまっていた。昨夜の酒が未だに抜けきらないようで、鈍い痛みに耐えかねているようだった。

「ウッ…………あだまい゛た゛い゛……お腹も……まだ目が回ってる。これが二日酔い……あんなにお酒飲んだの顕現して初めて。次郎太刀っていつもこんなに呑んでるの?本当に同じ刀剣男士?いや御神刀だから違うのか……。記憶ないんだけど変なこと言ってないよね?…………あれなんか自信無くなってきた。えっ……と……あっあああ!?あっ、あれって夢?現実……?それとも……?どちらにせよ責任とって切腹するしかないか。もしもの時の介錯は新撰組の子が得意かな。堀川くん呼んでくる……」

昨夜の失言を思い出したのか、ただでさえ顔の白い村雲江は更に白くして、カタカタと震えだした。あれが夢だったのか現実だったのか、それは当の本人にしか預かり知らぬところだ。

今にも色んな意味で吐きそうになっている村雲江は早急に覚悟を決めて、堀川国広の元へと急ぐのだった。

──そうして新撰組の刀達の前で自決しようとして、全力で止められたのはまた別の話である。


三十四

昨日の騒ぎから一転、本体を取り上げられた村雲江は落ち着きを取り戻し、相も変わらず堂々と審神者の御前に腰を下ろしていた。

片手に端末をもち、反射したブルーライトが村雲江の顔を青白く照らしている。

「乱舞レベルの上限が上がったんだって。騒がしくてさ、お知らせ勝手に読んじゃった。みんな上限に達したらどんなこと言うんだろうね?雨さんなら歌でも詠むのかな?……審神者からお祝いの品も貰えるんだってね……。もし、主が俺のレベルをあげてくれたとしても……俺はいいや。要らない。そんなの要らないから、売らないって言って。…………まあそれだけレベルあげたら主も売りはしない、、か?ごめんね。疑うようなこと言って。ずっと怖いんだ。また売られたらって……」

腹痛に苦しむ犬は腹をさすり神妙な面持ちになった。

二束三文で売られた過去を持つ彼にとって、物を商品として扱うこと、価値のあるものに値段をつけること、何かしらのレッテルが付けられるのは耐え難いことだった。例えそれが自分に与えられる物だったとしても、自分と重ねいつかは捨てられるのではとそんな不安ばかりを募らせていた。

村雲江が人間によって付けられた価値、自分自身で課した業から脱する日は来るのだろうか。

彼は腹を摩り暗闇に見える明後日の方向を見やった。その道は果てしなく遠いように思えた──


三十五

やけに遠くまで通る声は審神者の部屋まで聞こえてきていた。おまけに滑舌が良いため、なんと噺しているかがよく分かる。

──近頃は業務にかまけて暇を持て余した刀たちが落語や講談を話しては楽しんでいるらしい。

人気なのは郭話、元主の功績を称えた講談などであったが、中でも一文字則宗の怪談話は一際人気があった。彼の独特な声と元来の食えぬ性格も相まって、にっかり青江とはまた違った妖しさを放っていた。

村雲江はため息をついて精一杯の嫌味をはいた。それは非番が回ってこないことへの嫌味も含んでいた。

「みんないいご身分だね……俺は寝ずの番で仕事してるのに。見ていくうちに一文字則宗がそっくりそのまま覚えちゃって、なんだっけ、「死神」?やってたよ。たしか大ネタだよね。こんなご時世にあんなのやるなんて趣味が悪い爺さんだよほんとに……。愛染くんや蛍丸が時そばやってるほうがよっぽど可愛いよ。え?俺はやらないよ。お笑いとかちょっとよく分からないし、嫌いじゃないけどやる側じゃないかなあ」

村雲江の声をかき消すように大広間からどっと笑い声が上がった。眉間に皺を寄せ、彼はなんとも言えない表情を浮かべた。そうしてしばらく沈黙が続いたあと──

「あじゃらかもくれんきゅうらいそてげれっつのぱ……ほおら。消えた。………なんて」

とぼそり呟くとわざとらしく舌を出して笑ってみせるのだった。


三十六

いつもより少し人気のない本丸だった。昨日の騒ぎとはうってかわって、何人かが外出しているらしい。中でも遠出の者達は何千里と離れた温泉街に出たそうだ。

「左文字派と琉球刀で温泉に行ってるんただって。北谷菜くんが熱いのはあんまりって言うのを江雪左文字と千代金丸が押し切って連れて行ったんだよ?案外二人とも強引だよね。兄弟揃ってだし、家族旅行に近いのかな?……いいなあ温泉。俺も行きたかった。今度雨さんと行こうかな。ちょうどいい季節になってきたし。ああーでも雨さん一度入ったら全然出てこないんだよ。これも季語とか言ってずっと詠むんだ。どうやったら出てきてくれるんだろう?」

ふと村雲江の脳裏に浮かんだのは、湯に浸かりすぎて茹でダコのようになった五月雨江だった。江の面々でも長風呂の彼はよくのぼせては心配ばかりかけていた。

大抵は村雲江がそばに居ることが多いので抑えがきくのだが、かたや村雲江が遠征の日や出陣に出ている日はそうもいかなかったのである。

三十七

そっと審神者の前に置かれた焼き菓子。箱に印字されたのは国宝と名高い城のイラストだった。それは旅から帰ってきた左文字と琉球の彼らからの土産だった。

その箱が大きなことから、できるだけ多くの者に配ろうとしている気遣いが伺えた。

左文字の彼らは久しぶりに審神者に顔を見せると、少しばかり旅の思い出を語るや否や退出してしまった。

いつも通り村雲江と審神者の二人きりの時間が流れ始める。

「……有名なクッキーらしいよ。俺にもくれたんだ。さっき食べてみたけどホワイトチョコが入ってて美味しかった。写真、綺麗だったね。湧水があってとこでも汲めたり、お城があったり……いいとこに行ったんだね。主はさあんな風に旅行したのいつが最後だっけ?だいぶ前だったよね。たまには息抜きしないとね〜またいっぱいいっぱいになっちゃうだろうから。手遅れ?そんな事ないよ……そうだ、護衛に俺と雨さんオススメだよ。経費で行こうとしてるって?あはは。ばれたか〜」

慰安旅行と銘打って経費でご相伴にあずかろうとした村雲江はけたけたと笑っておどけてみせた。この本丸の審神者は真面目な性格ゆえ、あまり旅行や外出はしてこなかったようだ。

それどころか部下である刀剣男士達に旅をさせ、その話を聞くことで自身も旅に出た気になっていた。そうしたことが数少ない喜びの一つだったようだ。


三十八

審神者の前に正座した村雲はいじらしく頬を触りながら、今度行われるという催しものの話を始めた。どうやら豊前江が主催らしい。本丸にある一番大きな掲示板には豊前江の豪快かつ達筆な筆跡で書き記された紙が掲げられていた。

ほとんど片付いてしまった掲示板の真ん中に貼られたそれはあまりにも目立っていた。

「豊前がね今度、馬の競走するんだって。掲示板にお知らせがでてたんだ。参加資格は走りに自信があるやつって書いてた。相変わらずだよねえ。しかも明後日開催って急だし……。今のところ姫鶴一文字の月毛、千代金丸の王庭、厚くんの松風、五虎退くんの花柑子から声が上がってるんだって。まだ増えるかも、だって。一体誰が勝つんだろう?……そういえば、博多くんが賭け事しようとしてたから、へし切長谷部が止めてたよ。「本丸内での競馬は禁止」だってさ。そりゃあもちろんそうなんだけど。こんかいくらい許してあげてもいいのにね?相変わらずの二人だよね。いつ何時も儲け時を逃さないというか、それを見越す彼もそこそこのやり手というか……」

本丸随一の経理コンビと謳われた彼らは実のところ、ここぞという時には敵対するような仲であった。それは決して不仲という訳ではなく、むしろ仲のいいほどのコンビであった。本丸で何か祭りごとがあればすぐさま嗅ぎつけて商売を始める勘定番長こと博多藤四郎に、本丸の風紀委員であり総務番長のへし切長谷部は常に目を光らせ警戒を張り巡らせていた。

どこの本丸もそんな所だろうが、この本丸の彼らはほかとは少し違う関係性を築いていた。それが彼らや他の者たちにとっての日常であったし、村雲江も見ていて清々しいくらいのようだった。


三十九

相も変わらず酒盛りばかりしているらしい本丸内は賑わっていた。そろそろ酒が切れてもおかしくは無いのだが、どこから手に入れてくるのか酒飲み達の腕の中には気がつけばやれ菊正宗だの獺祭だの山崎だのがすっぽりと埋まっていた。

その喧騒にもすっかり慣れて村雲江はもはやいつもの事だと笑って見せた。

「今日も今日とて宴会だよ。なんだっけ?誰かが送別会って言ってたけど最早誰の送別会か分からないよ。俺はもう二度とあんな失態を犯さないために飲んでません!ふふん。偉いでしょ。さっきね、鬼丸国綱と小烏丸に呼び止められたんだけど、ここは飲んだフリしとけって言われてお水渡されたんだ。彼らって結構気が回るよね。年の功っていうのか……?余裕があるよね。ああそうだ、明日の競走は姫鶴一文字と千代金丸、厚くん、五虎退くん、巴形薙刀、火車切、御手杵、白山くんが出るんだって。見事に馬思いの刀ばっかりだ。……豊前のこと応援してるんだ。見には行けないけど、きっと豊前が勝つって信じてるよ」

同じ刀工に打たれた刀だからだろうか。豊前江を信じる気持ちに嘘偽りはなかった。これから始まる競争に村雲江は見に行くことは無いが、きっと勝鬨をあげてくるだろう、そう信じてやまなかった。

その思いは他の江のもの達も同じらしく、既に勝った時負けた時用にと祝い酒とつまみ、そして野菜を用意しているようだ。もちろん指揮は篭手切江がとっていた。正直なところ勝ち負けには関係ないようだった、ただ江の者同士が集まって笑えあえばそれでいいのである。


四十

すっかり暗くなるのも早くなり、どこか寂しさを感じさせる夕暮れ時に蹄の音が一つまた一つと重なった。それは馬たちの帰還を知らせるもので、見物に押し寄せた刀たちが鼓舞する声まで重なっていた。

村雲江は少し見てくると席を外した後、興奮した様子で瞳を輝かせながら審神者の部屋へ戻ってきた。どうやら結果は火を見るより明らからしい。

「豊前が勝ったんだって!!!二着は五虎退くん、三着は姫鶴一文字だって。わ〜〜すごいなぁ!ほんとに勝っちゃうんだもんな。どうしてかな、俺まで嬉しいな。やっぱり身内だからかな?出馬した馬たちもやりきった顔してたよ!出番が無かった子はちょっと機嫌悪そうにしてたけど、競走の間は正宗の子達と鯰尾くんと骨喰くんが面倒見てあげて何とかなったみたい。あの二人って馬のお世話上手いよね。俺はそれほどでも無かったけど……どうやったら馬と仲良くなれるんだろうね?うーん、犬っぽいから?負け犬ってだけで俺自身は刀で人間なんだけど……雨さんもなんであそこまで仲悪いんだろう?」

頭上にはてなを浮かべた村雲江は心底不思議そうにした。──鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎。この二人と馬の仲の良さは人間と動物の垣根を越えている。

一方で江の二人は犬属性というだけで、人ではあるものの馬の間ではやはり同じ獣だとある種認められているらしい。

それを誇らしく思うかそれとも疎ましく思うかは彼ら次第であったが、少なくとも戦場では良き仲間として活躍していた。

これ以上馬と親密度が上がることもないと分かっていながら、往生際の悪い村雲江はどうすれば豊前や五虎退のように馬と仲良くなれるかそればかりを画策し始めた。


四十一

少しガランとした本丸にどこからか馬の嘶きが聞こえてきた。それは豊前江の放った鬣の立派な馬であっただろうか。誰も知る由はなかった。

村雲江の顔には少し影が落とされていて、どこか遠い目をしていた。

「……馬を放ったんだ。一頭じゃないよ、皆だよ。今までずっとお世話になったからねお別れするのちょっと寂しかったな。姫鶴一文字が丹精込めて育てた月毛は後輩さんのところに受け入れてもらったよ。豊前の相棒だった三国黒は、なんにも囚われずに走りたそうだったから山に放したんだって。豊前ったら柄にもなく少し泣いてたよ。豊前も泣くことあるんだね。……大丈夫。異空間じゃないし、きっと楽しく駆け回ってくよ。売られるよりも遥かにいいよ」

──売られるよりも遥かにいい。その言葉には重みが伴っていた。いつまでも止みそうになかった馬の嘶きは、気がつくと遠のいてしまい、やがて聞こえなくなってしまった。

ふいに「達者でな」という刀たちの声も重なった気がしたが、はてそれは愛馬にむけて言った言葉だったのかそれとも──


四十二

随分と物が減った本丸にも兆しは来ていた。気がつけば足音も少なくなっている。大広間を囲う座布団の数も、道場で打ち合いをする木刀も、祠の前で柏手を打つ音も随分と寂しいものとなった。

しかしながら幼い刀たちにはまるで関係ないようで、楽しそうな声が聞こえてくると村雲江はふっと笑った。

「粟田口の子に紛れて髭切がかくれんぼしているんだって。この本丸も随分片付いたし、隠れるところが減ってきたけれど、楽しそうでなにより。にしても彼は鬼役が上手いんだよ。知ってた?一度だけ交ぜてもらったことがあるけれど、見つけた時にニィって笑いながらみいつけたあっていうのが怖いから、俺は見てるだけで十分……。そういえば髭切って大侵攻の時にいた新しい刀剣男士にどことなく似てたよね?……考えすぎかな?あの彼はいつ実装されるんだろうね?……俺らにはもう関係ないか」

先の戦では確かに新たな刀剣男士と思わしき影があった。それは髭切のようにも見えたし、鬼丸国綱のようにも見えたし、小烏丸のようにも見えた。

審神者の意向により童子切安綱 剥落を受け取らなかった本丸では、蚊帳の外だという認識があった。

村雲江はどこか諦めがかった表情を浮かべ、少しため息を着くとふと障子の外から声がかかった。

──聞けばそれは鬼ごっこに参加しているという刀の声だった¿

「ん、誰か来たみたい。はーい。え?隠れ場所にしたい……?…………来るならもう少し上手くやってよね………はぁ」

日がな正座をしていた村雲江は静かに立ち上がり障子に近づいた。

障子の外の刀と村雲江──その影は何重にも重なった。相手の影はどう見ても幼き刀の姿とは似ても似つかわしくない物だった。

それを見つめる彼の瞳の奥は底の無い闇のように黒く、底なしの沼のように濁っているかのようだった。


四十三

──昨日からの予期せぬ来訪はまるで容赦がなかった。本丸中に充満するどんよりとした空気感に圧倒されそうになる感覚に村雲江は背後からぞわりと込み上げるものを覚えた。

しばらく出陣しないうちに刀の握り方を忘れてしまったような、それはあまりにも重く苦しいことのような気がして、慎重になりながらも鞘から刀身を抜き始めた。

「……!……本当に来るんだ……遅かったね。待ちくたびれたよ。敵が悪で、俺が正義…?それとも……」

雲間からさす満月の眩い光はあまりにも力強くて、障子越しに村雲江を射抜いてくるようだった。

その刹那──刀身に光が落ちたか、"それが"刀を振りかざした瞬間か、どちらが早かっただろうか。

村雲江は障子ごと叩き斬るとそれは砂嵐のように空気中に霧散していった。かわりに派手に破けた障子の和紙が垂れ落ちて、月が虚空を照らす。

村雲江は眩しいと小さく呟きながら、刀身に反射した満月をじっとみた。

「褒めなくていいんだ」

独り言のように呟く従順な犬の瞳はほんの小さな雫を溜め込んでいた。


四十四

昨夜から一夜経ち月が少しずつ欠け始めた。それと呼応するように、この本丸の刀も──

相も変わらず審神者の前で背筋を伸ばし、畳のへりを境に正座を続ける村雲江は静かに話し出した。

「……政府が顕現させた彼らが古巣へ戻ったよ。予定より早まったんだ。人手不足、なおかつ本丸での実績経験のある彼らは願ったり叶ったりの人員補充になるんだって。ほんとに勝手だよね。……まあ殆どの政府刀がこの本丸が最初で最後だと思ってただろう。……本丸を出る前に山姥切長義が「鬼は必ずいる」と、水心子正秀が「必ず突き止める」なんて言ってたよ。……馬鹿だよなあ。政府に戻ったら記憶なんて全部消されるかもしれないのに。他の刀もみんな同じ思いだなんて顔してさ。俺達のしてきた事が、主が貫いたことが正義だなんて誰が決めるんだよ……クソ……」

正邪に悩める村雲江は行き場のない怒りを拳に込めて畳を叩きつける。

山姥切長義をはじめ、政府が顕現した刀たちが元の場所に戻った。理不尽に仲間を奪われることを誰も咎めはしなかった。

それどころか彼らの帰還が唯一の希望だと考える者もいた。而して何度考えても結論は変わらない。

この本丸の行く末を村雲江はただ固唾を飲んで傍観する他ないのだった。


四十五

煤だらけになった紙きれを村雲江は力なく持った。光に透かしてみるとポロポロと紙の繊維が落ちていく。その紙面には確かに『長月十七日 刊行』と書かれていた。

それは審神者が掲載されていたという紙面と一致していた。

「十月は旧暦で神無月って言うんだ。神様がいない月で神無月……。出雲では神様が集まるから神在月って言うらしいよ。……顕現順にみんな少しずつ還ってる。神無月で還ることになるなんて、粋なのかこれも因果なのか……主が就任したてはこんな感じだったんだね。屋敷だけが広くて、人がいない。寂しいな……隠れんぼに鬼ごっこ、畑当番に馬当番、手合わせ、演練、遠征……出陣。もっと俺を選んでって言えば……。ごめん、ごめんね。いや謝るのも違うか……はは」

乾いた笑いは誰のためのものなのか。こういう時に笑い返してくれるような陽気な刀はいなくなってしまった。

村雲江は力のない表情で審神者を見つめた。段々と顔色が悪くなり、血の気が引いていく。まるで最初から血など通っておらず鉄の塊に戻っていくようだった。審神者によって霊気された付喪神など所詮は物でしか過ぎない。

自分の非力さにこの程度のもなのなのかと村雲江はうんざりした感覚を吐き出した。


四十六

小さく煙が上がる。風なんて吹いていないのにその煙は空気中にゆらゆらと漂いどこかへ消えてしまう。

それは江の彼らが審神者に向ける最後の餞別であって、村雲江が審神者の部屋に常駐するようになって嗅ぎなれたにおいだった。

「篭手くん、豊前、松井、桑くん、稲葉、富田……雨さんが還ったよ。………いま思えば、雨さんが先に顕現して俺を待っていた。篭手くんなんか最初は一人だったんだよね。待つのはどれだけ退屈で寂しかっただろう。みんな居たからそうでもなかったのかな。……どうだろう。はは。最後に聞けばよかったな。もう待つことも出来ないんてさ。それならずっと待っていたかったし、待たせていたかったよ。雨さんのことも。主のことも。……雨さんに貰ったどんぐり、捨てられないんだ……。あと少しでこれも消えてしまうのに。どうして物が物を持ってしまったんだろう。どうして大事にしてしまうのだろう……どうして俺はまた……」

両手の中にあるどんぐりを村雲江は大事そうに握った。あまりにも必死に握るため、指がくい込んで内出血を起こした。

かくして否が応でも生を実感することとなった村雲江はとひどく顔を歪ませた。


四十七

人も物もここにあった全てのものが忽然と姿を消して伽藍としていた。残されたのは二振りの刀と審神者のみ。まるで本丸始まりの日を思い起こさせるようだと初期刀の加州清光は言った。

村雲江が顕現するよりもはるか昔の話なのに安易に想像が出来てしまうのは何故だろうか。途方もなく続く長い廊下に出て、庭にかかった橋を見ているとあの日を追体験できるような気がした。

村雲江は慎重に言葉を選んでやがて戦績を読み上げるのと同じように、つらつらと言葉を並べ始めた。

「初期刀──加州清光。大和守安定と同じくして沖田総司の愛刀。……池田屋事件において帽子が折れその後所在不明。初鍛刀──今剣。源義経が愛用していた伝説の刀剣。衣川の戦いで源義経の最後を見届けたとされていたが、"彼"がみた過去からして存在しない刀であり、人々が語った物語であった、と」

淡々と来歴を話すのはまるで自分に言い聞かせているようだった。

今この時にもその真紅の目は自分に向けられている気がした。言葉を紡ぐ度に村雲江の顔は影が落ちていく。

「数奇なものだね。この二振りが主の特別な刀なんて。主は俺たちを選べるけど、俺たちは主を選べない。俺たちは守れることはできても人を永久に生かすことはできないだ。……俺の役目は向こう側に行こうとする彼を止めて元に還すことだったんだね。なるほど、これには初期刀、初鍛刀では務まらないわけだ」


四十八

すっかり静まり返った本丸にただ一人、審神者に向かい合う刀剣男士がいた。百振り以上もいた刀は村雲江ただ一人を残して、本霊に還ったのだ。正真正銘の二人きり。

村雲江は小さく呼吸を重ねる。酸素が薄いのか、心做しか苦しそうに見える。霊力が足りずやっとの思いで立っている、そういう風にも見て取れた。

「加州清光が還ったよ。遂に俺と主、二人きりだ。彼、最後まで主のことよろしくって。………強い刀だよ。俺が選ばれたこと、一度も責めたりしなかったんだ。主のこと心から信頼してたから、最後まで信じたんだろうね。手合わせも練度も彼には勝てたことなかったな」

本丸一の刀剣男士と謳われた加州清光は、名実ともに誰よりも強い刀であった。初期刀であり本丸の始まり日から審神者を支え、練度もとっくの昔に上限に達していた。心身ともに強く、誰よりも仲間を思いそして誰よりも審神者を人として主として慕っていた。

──あの日、審神者を迎えに行ったのも彼だった。

「ねぇ、もしも主が寂しいっていうのなら俺は……なんでもない。忘れて」

何かを言いかけて、直ぐにその言葉を嚥下する。ゆっくりと瞼を閉じて、明日が来るのを静かに待った。


四十九

「今日で四十九日か」

村雲江は跪坐をして審神者に向かい合っていた。それは最大限の忠義を表すためのものだった。

「長かったような短かったような。主が俺を最後の近侍に選んだ理由、ずっと考えてたけど分からなかったや」

四十九日間に及ぶ言の葉達の裏にはいつも漠然とした謎があった。審神者を介して限られた時を共有し、自分の納得する理由を探し続けた。

「今日が本丸最後の日なんて、はやいなあ……俺もしておこう。じゃん!雨さんお気に入りの線香だよ。託されてんだ。さすがに使い切れなかったけども」

マッチで火をつけて、小さな火を線香に移す。灰にさすとゆらゆらと煙が上がり、手を合わせた。

村雲江の前には菊の模様があしらわれた純白の骨壷が無機質に置かれていた。

「 ……正義や悪なんてのはどうでもよかった。だってもう死んでしまったから。死者の正邪を後の人間が決めつけることは墓を暴く行為だ。そんな愚昧なことは無いからね」

葉月二十日余六日。審神者の命日。その日は蝉がよく鳴いていた。

茹だるような暑さの日、初期刀である加州清光は審神者が首を吊っている姿を発見し、泣き崩れたのだという。

果たしてそれが村雲江であったなら、彼は同じ涙を流せただろうか。村雲江は自身の役目はそうしたことでは無いと考えていた。

「今剣が話していたこと考えてみたけど、彼は嘘をつくような子じゃないと思う。考えてもみてよ、物語の中で生まれてきた刀だよ。作り話で人を苦しませるような子じゃない。だからさ……」

「ごめんね。加州」

鞘に巻き付けられていた刀剣御守を村雲江は丁寧に解いた。畳に置いて、刀を抜刀すると村雲江は躊躇いなく破壊した。

真っ二つに裂けた御守からは小さな桃の花びらが舞い散って途端に枯れてしまった。

その様をじっと見届けると刀を乱雑に放り出して壁に立てかけてあった唐鍬を手に取った。それは桑名江が愛用していたもので、柄の部分には彼が自身で彫った名前が書かれている。

ふいその刻印と目が合って村雲江は震えそうになる手に力を込めた。刃は自分を向いている。

浅い呼吸を繰り返し天から地にかけて、刀身めがけて勢いよく振りかざした。

刀は折れ、小さな破片が飛び散る。それと同時に村雲江の肉体が裂け口から血を吐いた。

「……ようやく、正義も悪もない場所へ、……いけるんだ」

瞼をゆっくりと閉じ、村雲江は川を渡って──

──────────────────────────────────────────────────────────

神無月十日余三日

肥後国 本丸番号××××××××サーバー××××× ××× 本丸の消失を確認。

政府顕現の刀剣男士は移送を完了。計八振りの記憶を改竄。

審神者顕現の刀剣男士は本霊に帰還。ただし近侍であった村雲江の生体反応が途絶えた。状況からして刀剣破壊の可能性が高いとされる。

本丸へのゲートを完全に消去したため調査は不可能。

これより本丸の所有権を政府は完全に放棄する。

報告は以上とする。









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